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コントラバンド(英:Contraband)は、アメリカ合衆国の南北戦争の時に使われた言葉であり、逃亡奴隷の新しい身分あるいは北軍に入ってきた奴隷を指す。英語の''contraband''には密輸(品)、禁制(品)という意味がある。 == 歴史 == アメリカ連合国の諸州が南北戦争を始めて以来、南部が所有する奴隷の扱いは、敵対関係が始まって間もない1861年初頭から問題となった。バージニア州ハンプトン・ローズのモンロー砦において、指揮官のベンジャミン・バトラー少将は、南軍が占拠するノーフォーク郡からハンプトン・ローズの港を越えて3人の奴隷が逃げてきて、北軍が保持するモンロー砦に現れたことを知った。バトラー将軍は南軍を支持する奴隷所有者に対する奴隷の返還を拒否し、奴隷は「コントラバンド」(戦時禁制品)と位置付けられることとなった。ただし軍の記録上で初めてこの用語を使ったのは別の士官だったようである(後述)。 3人の奴隷はフランク・ベイカー、ジェイムズ・タウンゼンド、およびシェパード・マロリーといい、北軍のモンロー砦から見てハンプトン・ローズ港の口を挟んだ対面にあるスーウェルズ岬に防御砲台を構築するため、所有者から南軍に貸与されていた。3人は夜に脱走し、小型のボートを漕いでに渡り、近くにあったモンロー砦に避難所を求めた。 南北戦争の前ならば、奴隷の所有者は(動産としての)奴隷の返還を請求する法的権利があったので、この時も連邦の1850年逃亡奴隷法の下でそうなる可能性があった。しかしバージニア州はもはやアメリカ合衆国の一部ではないと(連邦脱退により)宣言していた。弁護士として教育を受けていたバトラーは、バージニア州が自身をアメリカ合衆国の外国と考えているならば、3人の返還に応じる義務はなく、代わりに「戦時禁制品」として差し押さえるという立場を採った。南軍のジョン・B・キャリー少佐が3人の返還を要請したがバトラーは拒否した。但しこれは脱退州を外国として実効的に承認していたので、エイブラハム・リンカーン大統領は反対した。 バトラー将軍は逃亡奴隷にやがて労役を割り当てたが賃金を払わず、彼らを奴隷と呼び続けた。1861年9月25日、海軍長官のギデオン・ウェルズは、合衆国海軍が雇用する「有色の人々、一般にコントラバンドと呼ばれる者」に対して月額10ドルと完全な日次配給を与えるよう訓令を下した〔Official records of the Union and Confederate Navies in the War of the Rebellion, Series I - Volume 16, page 689〕。3週間後、陸軍もこの要請に従い、モンロー砦のコントラバンドの男性に月額8ドルと女性に4ドル、および作業に応じた手当てを支払うこととした〔The war of the rebellion: a compilation of the official records of the Union and Confederate armies, Series 2 - Volume 1, page 774〕。 同年8月、連邦議会は1861年押収法(en)を成立させ、南軍が用いた如何なる資産も(奴隷を含め)北軍が没収できることとした。翌年3月、奴隷返還禁止法(en)が成立し、アメリカ連合国に属する所有者や南軍に対する奴隷の返還を禁止した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コントラバンド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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