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コンピエーニュのロスケリヌス( または Rucelinus、1050年頃 - 1125年頃)は、フランスの哲学者・神学者で、しばしば唯名論の創始者とされる(スコラ学を参照)。 ==生涯== ロスケリヌスはコンピエーニュに生まれた。彼の生涯についてはほとんど分かっておらず、彼の教説は主にカンタベリーのアンセルムスおよびペトルス・アベラルドゥスの報告から知られる。 ロスケリヌスはソワソンおよびランで教育を受け、その後にシャルトル大聖堂に所属してさらにコンピエーニュの聖堂参事会会員に就任した。コンピエーニュの修道士として、彼は1087年には教授を行っていた。彼はランフランクス、アンセルムス、シャルトルのイヴォらと交流した。 最初に唯名論の教説を公表したのは、厳密にはロスケリヌスではないという説が非常に有力である。しかし、彼の主張によって人々ははっきりとした唯名論の教説を受け取っており、一般の関心を集めたことで唯名論が三位一体の教義に適用された。 私たちが三位格を三実体、つまり三神だということを妨げるものは定式化する上での慣習にすぎない、とロスケリヌスは主張した。もしそれを妨げるのが他のものであって、三位格が本当に一つの実体、あるいは一つのもの(羅:una res)であるならば、父も聖霊も子とともに受肉すると認めないといけないという事態に直面する。そのためロスケリヌスは自説を誠心誠意に提唱し、まずランフランクスとアンセルムスの権威のもとに主張した。 しかし、1092年から1093年にランス大司教によってソワソンで開かれた教会会議において彼の教説は非難され、ロスケリヌスは三神論を唱えたとして責められ、自身に帰せられた教説を撤回することになった。しかし保守的な人々による破門、さらには石打ちによる死といった恐怖から逃れるとすぐに、彼は自らの理論を持ち直した。彼はイングランドに逃れたが、アンセルムスからの攻撃のために人気を得ることができず、今度はローマに赴いた。ローマでは人気を得て、カトリック教会との和解も成立した。その後フランスに戻ると、彼はトゥールとロシュ(ここでアベラルドゥスが彼の弟子となった)で教え、最終的にはブザンソンの聖堂参事会会員となった。1121年にも彼の消息が知られており、その頃にはアベラルドゥスの三位一体に関する教説に反論していた。 ロスケリヌスの著作はアベラルドゥスに対する書簡のみが残っている。オリューが彼の名前をある文献と結びつけている: 『普遍教師Rの文』(羅:Sententia de universalibus secundum magistrum R.、"Notices et extr. de quelques manuscr. lat.", V, Paris, 1892, 224)。しかしこれは憶測に過ぎない。アンセルムス、アベラルドゥス、ソールズベリのヨハネス、匿名の警句からロスケリヌスの教説の典拠が得られる。思想史における彼の役割、特に彼の唯名論は過大評価されており、彼の名声は主に神学的な三神論によるものである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コンピエーニュのロスケリヌス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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