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コンラート・ゲスナー
コンラート・ゲスナー(Conrad Gesner, 1516年3月26日 – 1565年12月13日)は、スイスの博物学者、書誌学者。医学、神学をはじめとするあらゆる知識、古典語を含めた多言語に通じ、業績をあげた碩学である。著書『動物誌』全5巻 (1551-1558) は、近代動物学の先駆けとされる。植物学にも長け、イワタバコ科 (Gesneriaceae) の名称はゲスナーにちなむ。また、書誌学の基礎を築いたとされる『世界書誌』 (1545-55) を著し、書誌学の父と呼ばれる。世界的な博物学者である南方熊楠はゲスナーに感銘を受け、北米時代の日記に「吾れ欲くは日本のゲスネルとならん」と記している。ほかのアルファベット表記として Konrad Gessner, Conrad Gessner, Conrad Geßner, Conrad von Gesner, Conradus Gesnerus などがある。 ==生涯== 毛皮工職人の子としてチューリッヒで生まれ育つ。当地は宗教改革の指導者ツヴィングリが活動した都市で、ゲスナーは幼少からその影響を受け、生涯プロテスタントの信仰を保った。1531年ので父親を亡くし、金欠に陥ったが、聖母教会での恩師オズヴァルト・ミュコニウスや、ハインリヒ・ブリンガーから援助を受けて、1532年から翌1533年にかけてストラスブール大学やブールジュ大学で学んだ。 1535年、プロテスタント迫害を逃れてチューリッヒに帰郷し、不幸な結婚をした。妻は病気がちで、子供に恵まれなかったとだけ伝えられている。1536年ミュコニウスから再び援助を受けてバーゼルへ留学した。1537年ローザンヌのアカデミーでギリシア語教授に就任、自然科学とりわけ植物学の研究に没頭する時間を得た。1540年には教授を辞職し、世に名高いモンペリエ大学医学部に学び、1541年バーゼルで医学博士号を取得、以降チューリッヒ大学で哲学、数学、自然科学、倫理学を講義するかたわら研究生活に入った。数回の外遊と、故郷での植生調査を除いて、終生そこで過ごした。1564年腺ペストが流行し、市医として前線で治療にあたったが、自身も1565年にペストに倒れ、チューリッヒの大聖堂の回廊に埋葬された。1978年発行の50フラン紙幣にゲスナーの肖像が使われている。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コンラート・ゲスナー」の詳細全文を読む
英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Conrad Gessner 」があります。
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