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許心美(きょしんび、コーシムビー←คอซิมบี้ ณ ระนอง、1857年 - 1916年)はタイのトラン県の知事およびモントン・プーケットの省長を努めた人物。ナ・ラノーン家出身。タイ南部におけるゴム産業の第一人者であもある。タイに於いてはプラヤー・ラッサダーヌプラディットマヒソーンパックディー(พระยารัษฎานุประดิษฐ์มหิศรภักดีという官位・欽錫名あるいはその略称であるプラヤー・ラッサダーという名前で知られる。肖像(外部) ==伝記== 1857年、ラノーン県に誕生。父親は許泗漳(きょししょう)と言い、中国福建省漳州出身の華僑である。許心美は12歳の時に墓参りのために一度中国へ渡航し、その後2年福建に滞在している。成人し、兄がラヨーン県の知事となるとバンコクの小姓局に職を得る。後にラノーン県帰郷しルワン・ボーリラックローハウィライの官位・欽錫名を得て兄の仕事を補佐した。1884年、プラ・アッサドンコットティットラックサーの官位・欽錫名を下賜されクラビー県の知事となる。5年後には現在良く知られるプラヤー・ラッサダーヌプラディットマヒソーンパックディーの官位・欽錫名を下賜されトラン県の知事となった。 この後、許心美は1901年までトラン知事を務めるが、この間に学校建設や道路工事などのインフラ整備に着手した。また、英領マレーへ出張した際に、国外持ち出し禁止であったゴムノキの種を持ち帰り、県庁舎の前に埋めた。これは1902年にモントン・プーケットの省長となって当地に赴任した後、発芽し、その後タイ南部全土で栽培されることになった。これは現在でもタイ南部の主要産物である。 行政能力を買われモントン・プーケットの省長となった後は1916年のその死まで、省長の座を保持し続けた。許心美の死後、タイ南部の知事はナ・ラノーン家以外の者が任命されるようになり、ナ・ラノーン家の繁栄は許心美で終わりを告げることとなる。 許心美は生涯の間に多数の言語に通じており、八カ国語を話すことが出来たと言われる一方で、文字の読み書きが出来ず、書けるのは自分のサインのみだったといわれる。許心美はトラン県では英雄視されておりの市内には銅像が建てられている。また1992年にはその功績を政府から評価され、タイにおける行政分野のもっとも際立った5人の人物として政府から賞賛された。 category:タイの外国人 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「許心美」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ratsadanupradit Mahitsaraphakdi 」があります。 スポンサード リンク
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