|
コーネル・ワイルド(Cornel Wilde, 本名:Cornelius Louis Wilde、1912年10月13日 - 1989年10月16日)は、アメリカ合衆国の俳優、映画監督、映画プロデューサー。脚本家としては「ジェファーソン・パスカル」の名前を使っていた。出生名コルネール・ラヨシュ・ヴァイス(Kornél Lajos Weisz)。 ==来歴== ハンガリー(現スロヴァキア)のプリエヴィドザ生まれ〔''List or Manifest of Alien Passengers for the United States, S.S. Noordam, Passengers Sailing from Rotterdam, May 4, 1920'', New York Passenger Lists, 1820-1957. iProvo, Utah, 2010.〕〔''Air Passenger Manifest, Transcontinental and Western Air, Inc. Flight 971/05'', December 5, 1948. New York Passenger Lists, 1820-1957. Provo, Utah, 2010. この移民記録書の中でワイルドはみずからの出生地をハンガリー、生年を1912年としている。〕。両親はハンガリー系ユダヤ人。1920年に一家で渡米し、アングロサクソン風の姓名に改める。 1933年にニューヨーク市立大学シティカレッジに入学するが1年で中退。その後、あらゆる職業に就きながら、1936年にベルリンで開催された第11回夏季オリンピック(ベルリンオリンピック)にフェンシングアメリカ代表男子選手として出場する。同年に端役で映画デビュー。 1940年に舞台『ロミオとジュリエット』で俳優ローレンス・オリヴィエのフェンシングのコーチをしながらティボルト役で出演しているところを認められて1941年本格的に映画デビューを果たす。数本の映画に小さな役で出演した後、チャールズ・ヴィダー監督の『楽聖ショパン』(1945年)でフレデリック・ショパンを演じ、アカデミー主演男優賞候補に選出される。 以降、ハリウッドにおいて、恋愛映画、活劇並びにフィルム・ノワール等の映画作品でハンサムなタフガイとして、尚且つ、ハンガリー語、フランス語、ドイツ語、英語、イタリア語とロシア語に堪能なことから国際的スターとして活躍する。 また、1950年代に映画制作会社を設立し、自ら映画製作に乗り出し、『大雪原の死闘』(1955年)等では出演のみならず、監督・製作・脚本を手掛けている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「コーネル・ワイルド」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|