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ゴシック建築(英語:Gothic Architecture)は、12世紀後半から花開いたフランスを発祥とする建築様式。最も初期の建築は、パリ近くのサン=ドニ(聖ドニ)大修道院教会堂(Basilique de Saint-Denis)の一部に現存する。イギリス、北部および中部イタリア、ドイツのライン川流域、ポーランドのバルト海沿岸およびヴィスワ川などの大河川流域にわたる広範囲に伝播した。 「ゴシック」という呼称は、もともと蔑称である。15世紀から16世紀にかけて、アントニオ・フィラレーテやジョルジョ・ヴァザーリらが、ルネサンス前の中世の芸術を粗野で野蛮なものとみなすために「ドイツ風の」あるいは「ゴート風の」と呼んだことに由来する(ゴート族の建築様式というわけではない)。 ルネサンス以降、ゴシック建築は顧みられなくなっていたが(この時期をゴシック・サヴァイヴァルと呼ぶ)、その伝統は生き続け、18世紀になると、主として構造力学的観点から、合理的な構造であるとする再評価が始まった。18世紀から19世紀のゴシック・リヴァイヴァルの際には、ゲーテ、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン、フリードリヒ・シュレーゲルらによって、内部空間はヨーロッパの黒い森のイメージに例えられて賞賛され、当時のドイツ、フランス、イギリスでそれぞれが自らの民族的様式とする主張が挙がるなどした。 ==概説== ゴシック建築は、歴史的区分としては1150年頃から1500年頃までの時代を指し、フランス王国からブリテン島、スカンディナヴィア半島、ネーデルランド、神聖ローマ帝国、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島西部沿岸部、ポーランドおよびポーランド・リトアニア共和国の版図に伝わった建築様式をいう。しかし、これら歴史的・地理的条件が必ずしも相互に対応しないという点や、建築の形態的・技術的要因、図像などの美術的要因の定義づけが難しいという点で、他の建築様式に比べるとかなり不明瞭な枠組みであると言わざるを得ない。特に後期ゴシックは、地方様式とも絡む複雑な現象で、装飾や空間の構成を包括的に述べることはたいへん難しい。 ゴシック建築は、北フランス一帯において着実に発展していた後期ロマネスク建築のいくつかの要素を受け継ぎ、サン=ドニ修道院付属聖堂において一つの体系の中に組み込まれて誕生した。12世紀中葉から、サンスやラン、パリ、そしてシャルトル、ランス、アミアンでは、これに倣って大規模かつ壮麗な聖堂が建てられることになった。当然、西ヨーロッパでは、このほかにもたくさんの建築物が建設されていたが、イル=ド=フランス地方をはじめとするフランス王国の中心地においてのみ、初期から盛期にいたるゴシック建築の首尾一貫した発展の状況を見ることができる。 ゴシック建築が伝播した他の諸国の政治的・経済的事情は多様で、発達や伝播の過程は複雑な様相を呈し、後期になるとこれが顕著に現れる。しかし、それでもゴシック建築が一定の建築的構成をふまえつつ流布したのは、国々を跨いで独自の組織網を構築していた修道院の活動が大きかった。ロマネスク建築と同様に、ゴシック建築においてもベネディクト会やシトー会の影響は大きく、13世紀以降はドミニコ会、フランシスコ会などが、ゴシック建築の伝播に寄与することになった。 ゴシック建築は、尖ったアーチ(尖頭アーチ)、飛び梁(フライング・バットレス)、リブ・ヴォールトなどの工学的要素がよく知られており、これらは19世紀のゴシック・リヴァイヴァルにおいて過大に評価されたため、あたかもそのような建築の技術的特徴のみがゴシック建築を定義づけると考えられがちである。しかし、ゴシック建築の本質は、これらのモティーフを含めた全体の美的効果のほうが重要で、ロマネスク建築が部分と部分の組み合わせで構成され、各部がはっきりと分されているのに対し、ゴシック建築では全体が一定のリズムで秩序づけられている。 リューベック、グダンスク、トルン、クラクフなど、北ドイツやポーランドを中心とするバルト海沿岸およびその大河川の流域ではブリック・コシックと呼ばれる、レンガを用いた独特のゴシック建築が発展した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゴシック建築」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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