|
ゴリラ・モンスーン(Gorilla Monsoon、1937年6月4日 - 1999年10月6日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。本名ロバート・ジェームズ・マレラ(Robert James Marella)、通称ジノ・マレラ(Gino Marella)。ニューヨーク州ロチェスター出身のイタリア系アメリカ人。 そのプロレスラーとしてのキャリアのほとんどをWWWFで過ごし、現役時代は196cm、158kgの体格を活かしたパワーファイターとして活躍。引退後もWWFでビンス・マクマホンの片腕として要職を務め、バックステージのコーディネーターやテレビ放送の実況アナウンサーを担当。生涯をWWEに捧げた。1994年、WWE殿堂入り。日本でのニックネームは「人間台風」。 == 来歴 == === 現役時代 === コーネル大学ではレスリング部のキャプテンを務め、1958年にNCAAの全米大会で優勝〔『THE WRESTLER BEST 1000』P30(1996年、日本スポーツ出版社)〕。その後もソビエト連邦への親善遠征チームのヘビー級代表になるなどして活躍した〔。大学卒業後、その実績と体格を見込まれ、1959年にジノ・マレラの名でデビュー。1963年4月に日本プロレスに初来日。同年8月、旗揚げ間もないWWWF(現WWE)に移籍し、ビンス・マクマホン・シニアから「満州出身の元アジア王者」ゴリラ・モンスーンのリングネームを与えられ、怪人ヒールに変身した〔。モンスーンの由来は前述の「人間台風」(訳すとヒューマン・タイフーンとなる)がヒントになったという。 1963年10月、いきなりブルーノ・サンマルチノのWWWF世界ヘビー級王座への挑戦者としてニューヨーク・デビュー。1か月後にはキラー・コワルスキーと組んでスカル・マーフィー&ブルート・バーナードを下しWWWF・USタッグ王座(世界タッグ王座の前身)に戴冠。さらにその数日後には再びサンマルチノに挑み、60分フルタイムドローの熱戦を繰り広げた。USタッグ王座は1965年にビル・ワットとのコンビでも、ジン・キニスキー&ワルドー・フォン・エリックを破り再度獲得している〔。1968年にはオーストラリアに遠征し、スパイロス・アリオンからIWA世界ヘビー級王座を奪取した。 サンマルチノの最大のライバルとして活躍後の1969年、ザ・シークに襲われたところを、その宿敵サンマルチノに助けられ、彼との「友情ストーリー」を経てベビーフェイスに転向した〔。「満州出身」のプロフィールは削除され、ペドロ・モラレスがWWWF王者だった期間は、彼の通訳兼マネージャーとして活動。 1976年、モハメド・アリとアントニオ猪木の異種格闘技戦が決定すると(当時WWWFと新日本プロレスは提携関係にあった)、WWWFのリングに登場したアリに乱闘を仕掛け、エアプレーン・スピンを見舞っている〔。また翌年にはアンドレ・ザ・ジャイアントとボクシング・マッチを行った〔。1980年、ケン・パテラとのインターコンチネンタル王座と自身の引退を賭けた試合に敗れ、バロン・シクルナと引退試合を行い、リングを降りた〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゴリラ・モンスーン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|