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ゴルカ王国(ゴルカおうこく、ネパール語:गोर्खा、英語:Gorkha)は、1559年から1768年まで続いたネパールの王朝。ネパール王国の前身となった王国でもある。 == 歴史 == 16世紀、ヤショー・ブラフマ・シャハ(Yasho Brahma Shah)がカスキ王国(現カスキ郡)を征服した。 1559年、ヤショー・ブラフマの子、ドラヴィヤ・シャハ(Dravya Shah)がゴルカ王国(ゴルカ朝)を確立。当時、ネパールは多くの独立した小国に分かれており、ゴルカは二四諸国にも数えられないほどの小国であった〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.487〕。 カトマンズ盆地では、1484年にラーヤ・マッラのバクタプル・マッラ朝から、ラトナ・マッラのカトマンズ・マッラ朝が独立。1619年にシッディナラシンハ・マッラのパタン・マッラ朝が独立し、マッラ朝は三王国時代に入る。 ラーム・シャハの治世、パタンを訪れてパタン・マッラ朝と友好関係を結び、以後ゴルカとパタンの友好関係が続いた〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.486〕。 ダンバル・シャハの治世、1637年にパタン・マッラ朝がカトマンズ・マッラ朝のプラターパ・マッラに攻撃されると、パタンに援軍を送った〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.487〕。だが、ゴルカの援軍はカトマンズ軍に敗北した。 ルドラ・シャハもまた、1671年にパタン王シュリーニヴァーサ・マッラに援軍を送り、マクワンプル・セーナ王国の攻撃に向かわせている〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.487〕。 ルドラの息子プリトビパティ・シャハの代になると、パタンとの友好政策を転換し、三都マッラ朝に対して様々な権謀戦術を用いた〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.488〕。ときにはパタンを孤立させ、またあるときにはカトマンズを孤立させた。 次のナラ・ブーパール・シャハも同様の政策を取り、とくに1725年には目まぐるしい三都対策を行ったばかりか、その後も三都に揺さぶりをかけ続けた〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.489〕。また、チベット交易の要衝ヌワコートを奪取しようと試みたが、このときは三都マッラ朝の結束した攻撃にあって失敗した〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.489〕。 1743年、プリトビ・ナラヤン・シャハが王位を継承すると、ネパール統一に乗り出す。1767年のキルティプルの戦い、1768年ので、ネワール族のマッラ朝にゴルカ軍が勝利。同年9月、彼はネパール王に即位する〔佐伯『世界歴史叢書 ネパール全史』、p.496〕。その後、1769年までにパタン、バクタプルも制圧し、盆地を統一した。 こうして、ゴルカ王国はネパール王国としての歴史を歩むこととなった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゴルカ王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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