|
佐村河内 守(さむらごうち まもる、1963年9月21日 - )は、広島県出身の日本の人物。 中途失聴とされる聴覚障害がありながら『鬼武者』のゲーム音楽や「交響曲第1番《HIROSHIMA》」などを作曲したとして脚光を浴びたが、2014年2月5日、自作としていた曲がゴーストライターの代作によるものと発覚(「ゴーストライター問題」の項を参照)。聴覚障害の程度についても疑義を持たれており、ゴーストライターを務めた作曲家の新垣隆は、「佐村河内は18年間全ろうであると嘘をつき続けていた」と『週刊文春』に掲載された独占手記で主張した。横浜市による再検査では中度の感音性難聴と診断され、障害者手帳の交付の対象となるレベルではなかった〔佐村河内氏 聴覚の診断書公開 - NHK NEWSweb〕。 == 経歴 == 1963年9月21日、被爆者健康手帳を有する両親の元、広島県に生まれた。高校では演劇部に所属。卒業後は京都に行き、東映京都撮影所で俳優養成所に通いながら、大部屋役者としての生活を始める。後に悪役商会に入ると言って東京に出る。 1985年2月18日に放送されたフジテレビ「月曜ドラマランド」枠の単発ドラマ「まさし君」(主演:風見しんご)に「速瀬守」名義で出演。端役のチンピラを演じた〔。 1988年2月、高校時代に出会った3歳年上の女性と結婚し、横浜に転居。そしてこの頃、知人を通じて「津軽恋女」(新沼謙治)などで知られる作曲家で音楽プロデューサーの大倉百人(おおくら もんど)に自分の歌が入ったデモテープを渡した。大倉は「声はいいものがある」と評価し、自身の事務所に所属させて、「元広島の暴走族総長」「極真空手初段」というプロフィールを持つ「第2の矢沢永吉」とのキャッチフレーズで、5月30日にレコード会社9社を集めて“競り”と称したファーストライブを行わせた。大倉はその後2 - 3社に契約を持ちかけたが、ちょうどその頃、佐村河内の弟が事故死したことや、大倉自身が佐村河内の「虚言癖」に気づいたこともあり、契約を詰めることなく、同年夏頃には事務所を辞めさせた。1988年5月31日のサンケイスポーツ紙面には、佐村河内の「国内では目標にする人はいません。いまの日本のロックにないパワーを見せたい」という言葉が掲載されている。 1990年、シンセサイザーで作曲を始める。アマチュアのロックバンドを結成して活動もしていたらしい。 1993年、自伝によればこの頃、左耳の聴力を失ったという〔。 1994年、この年よりNHKで制作が開始された『山河憧憬』シリーズの中の一話「武蔵野」(1999年放送)の音楽を担当した。文春の記事では1993年に担当して1994年に放送となっている。 1996年、新垣隆が佐村河内のゴーストライターとして曲を作り始める。新垣は「佐村河内の曲は、ほぼすべて自分が担当したと認識している」と述べている。 出会いは当時、シンセサイザーを使って簡単な作曲をしていた佐村河内が、映画『秋桜』の音楽の仕事を依頼されたことに始まる。1996年夏、アシスタントを探していた佐村河内は、自身がシンセサイザーで作った「短いテーマ曲」を新垣に渡して、「これをあなたにオーケストラ用の楽曲として仕上げてほしい。私は楽譜に強くないので」と頼んだ。佐村河内は「この作品はぼくの名前で発表したい。君の名前は演奏家としてクレジットするし、将来必ず引き上げるから、しばらく協力してほしい」と言ったという。この曲は「佐村河内が制作予算を無視して約二百万円もの自腹を切り」、新垣が「大学で集めた学生オーケストラに演奏させて録音」させた。「一つの作品ができると、それを持って別の映画会社、ゲーム会社、テレビ局等に売り込む。取ってくる仕事は、確実にレベルアップしたものになって」いったという〔。 1997年5月3日、映画『秋桜』公開〔(NHKアーカイブス)〕。 1999年1月、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」の担当が決定。佐村河内は自らが打ち込みで作曲した8曲入りのデモテープを渡し、新垣に200を超える楽器によるオーケストレーションを担当させた。しかし自伝によれば、この年の2月に「全聾」となり〔、医療検査機関からは「感音性難聴による両耳全聾」「両耳鼓膜欠落」と診断されたという。同年4月『鬼武者』製作発表。販売元であるカプコンの関係者によると、この日を境に「(佐村河内は)全聾である設定」にした、彼の耳が聞こえていることは、社内では皆が知っている暗黙の了解事項だった、という〔。 2001年1月、ゲーム『鬼武者』と、「交響組曲ライジング・サン」を含むサウンドトラックが発売され、17日の完成記者会見に臨んだ。聴覚障害をはじめ、抑鬱神経症、不安神経症、頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎など、自らの障害や持病について公表。頭鳴症については「常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まない」としていた。長らく聴覚障害を隠していた理由については「耳の不自由な作曲家の作品には、同情票がつくであろうこと。それだけはどうしても避けたかったのです」「『聴覚障害を売り物にした』という誤解も避けられないだろう」と説明した。これについて新垣隆は「これからはそういう形(全聾の設定)でと聞いた」と述べ、「私が録音したものを彼が聞き、彼がそれに対してコメントするというシーンは何度もありました」、「耳が聞こえないということを感じたことは一度もありません」と明確に否定している。 2001年9月、アメリカの雑誌『TIME』に「現代のベートーベン(digitalized Beethoven)」と紹介される〔。この取材を仲介したのは親交のあった映画監督の栗村実だという〔。 2002年1月21日、横浜市から身体障害者手帳(第1種2級)の交付を受ける。 2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』が完成。佐村河内は新垣に200万円の報酬を支払う。しかし、曲が長すぎたために長い間、どこにも発表されなかった〔。また、当時は「HIROSHIMA」の副題はなく、この副題は2011年のCD発売の際につけられたものである〔隠響堂日記 作曲家:吉松隆の21世紀音楽界諦観記/しつこくS氏騒動・交響曲編 「実は、CDが出る直前…推薦のコメントを録画すると言うときになって…担当者から『タイトルはHIROSHIMAになります』と言われて吃驚し『それはやめた方がいい』と進言したことがある」〕。 2005年8月、自伝によれば、『交響曲第2番』が完成。 2007年11月、自伝『交響曲第1番』(講談社)が発売。 2008年9月1日、広島市の広島厚生年金会館ホールで行われた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロシマのメッセージを世界に〜」にて交響曲第1番の第1楽章と第3楽章が広島交響楽団により世界初演される。同年、広島市民表彰(市民賞)を受賞(ゴーストライター問題発覚後取り消された)。講談社の編集者から紹介を受けたTVディレクターの古賀淳也が佐村河内の取材を行い、『筑紫哲也 NEWS23』(TBS)で紹介する〔古賀淳也『魂の旋律―佐村河内守』(NHK出版、2013年10月25日)p.36〕。 2009年、交響曲第1番は芥川作曲賞の選考過程で審査員である三枝成彰が推すも最終候補とならなかった。 2010年4月4日、大友直人指揮の東京交響楽団により、交響曲第1番《HIROSHIMA》(広島初演版による改訂版)の第1楽章と第3楽章が東京芸術劇場で演奏された。 2010年8月14日、秋山和慶指揮の京都市交響楽団により、交響曲第1番全曲版が京都コンサートホールで演奏された。 2011年4月11-12日、交響曲第1番全曲の録音をパルテノン多摩で行う。曲が複雑なため、録音にあたってはライブ録音ではなくセッション録音を選択。クラシックでは近年、コストの少ないライブ録音が主となっており、日本コロムビアのクラシック録音としてはこの10年かけたことのない金額が必要だったという。録音初日の2011年4月11日には東日本大震災の最大級の余震(福島県浜通り地震)が発生。7月にCD「交響曲第1番HIROSHIMA」が日本コロムビアより発売。 2011年、栗村実監督の映画『桜、ふたたびの加奈子』の音楽を「佐村河内守」名義で担当することが決定。 2012年1月、CD「シャコンヌ〜佐村河内守弦楽作品集」が日本コロムビアより発売。このアルバムに収録されている「ヴァイオリンのためのソナチネ 嬰ハ短調」は、「義手のヴァイオリニスト」として知られる“みっくん”に贈られた〔日本コロムビア、本人ページ「リリース情報『シャコンヌ 〜佐村河内守 弦楽作品集』」〕。6月25日、ヴァイオリニストの大谷康子らが「無伴奏バイオリンのためのシャコンヌ」を演奏する。 2012年11月9日、NHK『情報LIVE ただイマ!』で、"日本が涙!耳聞こえぬ作曲家・奇跡の旋律"として佐村河内が紹介される。この番組が反響を呼び、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャートで9位を獲得。 2012年12月12日のNHK『あさイチ』でも再び紹介され、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャート15位を獲得。 2013年3月10日、NHKスペシャルの企画として制作した「ピアノのためのレクイエム」を石巻市立湊小学校の体育館で初披露。この曲は、津波で母を亡くした石巻市の10歳の女の子のためにつくったもので、佐村河内が女の子のお母さんが消えた女川町の浜辺で明け方までの一晩を過ごしたときに「雨あられのように音が降ってきて」できたものだという。この経緯は後述のNHKスペシャルで放送された。このとき、佐村河内に「震災」をテーマに作曲させるために、「震災で親を亡くしたピアノを弾ける子」を番組スタッフがわざわざ探し出したという。この報道に対し、NHKは「佐村河内氏関連番組・調査報告書」〔〕にて、佐村河内が知人を通じて探したものでスタッフは関与していないと明確に否定している。 2013年3月31日、佐村河内を特集したNHKスペシャル『魂の旋律 〜音を失った作曲家〜〔ゴーストライター問題発覚後の謝罪コメント〕』が放送される。2008年以来の仲であるディレクター古賀淳也の企画である。番組では『交響曲第1番』の成功、聴力を失った「苦悩」(のちに詐称問題へ発展)、前述の東日本大震災の被災者へ向けたピアノ曲「ピアノのためのレクイエム」制作に至る経緯などが紹介された。この番組が大きな反響を呼び、交響曲第1番のCD売上がオリコン週間総合チャートで2位を獲得〔。 2013年4月26日、『中居正広の金曜日のスマたちへ』で佐村河内守特集が放送される。CDは売上を伸ばし続け、2013年5月時点で10万枚を記録するヒット作となった。 2013年6月5日、2007年に出版された自伝『交響曲第一番』が幻冬舎から文庫化。「闇の中の小さな光」なる副題が付けられる。 2013年6月13日、東日本大震災被災地に捧げた「ピアノ・ソナタ第2番」完成披露発表会がヤマハホールで開催され、出席した。演奏は佐村河内自身が白羽の矢を立てた新進ピアニストソン・ヨルム。発表会の模様や作曲の経緯について、同じ日のフジテレビ『FNNスーパーニュース』〔、日本テレビ『news every.』〔、NHK『ニュースウオッチ9』〔でとりあげられた。 2013年6月15日から、「交響曲第1番HIROSHIMA」全国ツアーが開始、全国30か所、各地の12のオーケストラが演奏する。指揮者などを指名していた為〔 〕、佐村河内曰く「亡くなった弟にそっくり」〔 〕という指揮者・金聖響が殆どのコンサートを受け持つこととなった。9月16日からは「ピアノ・ソナタ第1番&第2番」全国ツアーも始まった〔。主催はサモンプロモーション。 2013年8月17日、大友直人指揮の東京交響楽団による演奏会で、交響曲第1番に先立ち「弦楽のためのレクイエム・ヒロシマ」(合唱版を編曲したもの)が世界初演された。 2013年10月9日、ミリオン出版の季刊誌『BLACKザ・タブー』VOL.10に「現代日本にベートーベン現る!? 佐村河内守と怪し〜〜〜〜〜い面々!」と、本人の語る経歴を揶揄する記事が掲載される。 2013年10月18日、新潮社の月刊誌『新潮45』11月号に音楽評論家の野口剛夫による「『全聾の天才作曲家』佐村河内守は本物か」と疑問を呈する記事(2014年1月14日に電子書籍化)が掲載される。野口は「音楽専門誌に載せようとしたが、レコード会社の広告も載せる都合上、載せづらかったようで断られた。たまたま『新潮45』の編集者の目に留まった。でなければお蔵入りだったかもしれない」と語っている。 2013年10月23日、ピアニストのソン・ヨルムによるCD「佐村河内守:鎮魂のソナタ」が日本コロムビアより発売。 2013年10月25日、NHKスペシャル『魂の旋律 〜音を失った作曲家〜』のディレクター古賀淳也が、番組の内容を『魂の旋律-佐村河内守』(NHK出版)として書籍化。 2014年2月5日、『週刊文春』の暴露記事を送られた佐村河内が弁護士を通じて関係各所に謝罪したことから、ゴーストライター問題が発覚。翌2月6日、「全聾の作曲家佐村河内守はペテン師だった」の記事(2月13日に「堕ちた“現代のベートーベン”」のタイトルで電子書籍化)を掲載した『週刊文春』が発売〔され、ゴーストライターの新垣隆による謝罪の記者会見が行われる。 2014年2月12日、佐村河内による自筆の謝罪文が弁護士を通じて発表される。 2014年3月7日、佐村河内による謝罪の記者会見が行われた。#記者会見を参照のこと。 結果的に交響曲第一番HIROSHIMA全国ツアーは14回を残して中止となり、主催者のサモンプロモーションにより訴訟を起こされた〔佐村河内氏を提訴 企画会社、14公演中止の賠償求める 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「佐村河内守」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Mamoru Samuragochi 」があります。 スポンサード リンク
|