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ゴート族(ゴートぞく、、(または ))とは、ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の古民族。バルト海南部から黒海沿岸部に移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。 ゴートに纏わる言葉として、ルネサンス時代に野蛮なという意味で用いられ始めた「ゴシック(ゴート風の)」がある。16-17世紀のスウェーデンではゴート族は自国を出自とする民族であるという伝説「ゴート起源説」が盛んに唱えられ、そのゴート族(ヴァンダル族を含む)がヨーロッパ、アジア、アフリカを支配し、スウェーデン人がゴート族の末裔であるという俗説が捏造された。この俗説は17世紀のスウェーデンによる三十年戦争介入の動機となった。なお、イェーテボリはギート族の作った町であり、ギート族はゴート族と名称が似ており、互いに交易はあったようではあるが出自から言えば無関係の部族である。 == 歴史 == === ゴート族の起源 === 550年頃に、アリウス派僧侶のローマ帝国官僚でゴート人についての歴史家でもあったが、東ゴート王国の学者カッシオドルスの著書を要約して著した史書『ゴート人の事跡』(De origine actibusque Getarum)〔『De rebus Geticis』も参照〕によれば、ゴート族は「スカンディナヴィア島」(スカンディナヴィア半島は10世紀まで島であると考えられていた。)〔スカンディナヴィア南部は、特にゴートランド(イェータランド)と呼ばれる。〕 を発祥とする民族で、ベーリヒ王(ベーリク)の治世にバルト海を渡り、当時ヴァンダル族(、Lugii)が住んでいたゲルマニア(現ドイツ及びポーランド)のヴィスワ川河口域一帯に到達。その土地(現ポーランドのグダニスク一帯の東ポメラニア地方)をゴティスカンツァと呼び、ヴァンダル族の支配地をつぎつぎと平定したと記述されている〔ヨルダネス『De rebus Geticis』Ⅲ.25-26。〕。 ゴート族の起源は19世紀から議論されているが、ヨルダネスの伝えるスカンディナヴィア起原(:en:Gothiscandza)は現在では否定的に受け止められている。スカンディナヴィア南部はゴートランド(イェータランド)と呼ばれてはいるが、スカンディナヴィア半島でゴート族と結びつけられる痕跡は、ゲルマニア一帯の住民が遺したストーンサークル(いわゆる「クルガン」)と類似するものがスカンディナヴィアでも発掘されているという程度である。ストーンサークルは、オクシヴィエ文化や初期ヴィェルバルク文化(B1b期・1世紀中期)の墓地では形成されておらず、ゴート族がプシェヴォルスク文化の影響を強く受けるようになった2世紀初期(B2期)から一定期間にのみ認められる。もともとスカンディナヴィアでストーンサークルが発生したというのであれば、オクシヴィエ文化や初期ヴィェルバルク文化の段階から認められなければ矛盾が生じる。〔P.ヘーサー『The Goths』p25。〕。また、クラウディオス・プトレマイオスが著した『』(Geographia、地理学)によれば、スカンディナヴィアにゴート族の名称によく似るゴータイ(Goutai)が住むことが確認されるが、『ゲオグラフィア』に記載されている彼らの居留域とストーンサークルの分布は一致しない。このように、スカンディナヴィア起原は考古学的立証が難しく、さらにランゴバルト族のような他のゲルマン系民族にも同じ伝説があることから、単に名前の響きが似た別々の系統の部族だという可能性が高く、ゴート族に関してはスカンディナヴィア起原は疑問視されている。 1世紀末(97年から98年頃)に成立したとされるタキトゥスの『ゲルマーニア』には、ヴァンダル族と思われるルギイ族(ルーク族、Lugii)の土地(すなわちプシェヴォルスク文化の領域)より北方にゴート族(ゴートネス)が居留するとの記載が見られ、王制のもとにまとまっていることも知られている〔タキトゥス『ゲルマーニア』(岩波文庫)p219-p210。〕。これは南のプシェヴォルスク文化と北のオクシヴィエ文化(および草期ヴィェルバルク文化)の位置関係に合致している。ヨルダネスの記述によれば、彼らはガダリックの子、フィリメル王(ベーリッヒ王から数えて5代目の王)の時代にゴティスカンツァを離れ、黒海沿岸部のスキティアにたどりついた〔Jordanes『De rebus Geticis』Ⅲ.26-27。〕。ゴート族のヴィスワ川から黒海一帯への移動については、1945年以降、現ポーランド北部のヴィェルバルク文化と黒海北方のチェルニャヒーウ文化およびが発見され、その歴史をある程度追跡できるようになった。これらのどの文化もゴート族だけのものではないが、ゴート族(およびゲピーダエ族)の文化も装飾品の類似性からそこに含まれていると考えられる。特にヴィエルバルク文化とキエフ文化においては政治的にゴート族が主導的立場にあったと考えられている。 ヴィェルバルク文化は、ポメラニアからヴィスワ川下流域で1世紀中期にはすでに形成されていた文化で、成立当初は現在のポモージェ県、ヴァルミア・マズールィ県西部一帯において見られる。このヴィエルバルク文化は前2世紀ごろ現ポモージェ県で発生したオクシヴィエ文化から発展したもので、このオクシヴィエ文化こそ、この地方の人々がゴート族としてまとまった時代の最初期の文化であると推定される。150年頃、ゲルマニアのヴィスワ川東岸地方では考古学的にこの文化の著しい変化が認められており、ヴィェルバルク文化は元来ヴァンダル族の定住地であったヴィスワ川流域平原のうち、ヴィスワ川東岸一帯を伝って現ポーランド南部に領域を拡大している。墓地などの遺跡からは、この東岸地域でゴート族は土地の(プロト・)スラヴ人諸部族を必ずしも排斥せず、武力平定を強調するヨルダネスの記述に反して、両グループは特に争うこともなく混住していたことが明らかになっており、オクシヴィエ文化と東岸プシェヴォルスク文化が融合した結果としてヴィェルバルク文化が形成されたことがうがわれる。これはマルコマンニ戦争においてゴート族とヴァンダル族が同盟していたというローマの記述と一致しており、いっぽうヨルダネスの記述とは矛盾している。 このような動きはその後も1世紀ほど続き、220年頃までには現マゾフシェ県、現ルブリン県 、現ポトカルパチェ県一帯と現ウクライナ北部に到達した。この南下に呼応して、ヴァンダル族の文化と考えられるプシェヴォルスク文化も同時期にあたかも競うように南下している。300年頃には両文化とも現ウクライナ南部にまで拡大するが、一方でヴィェルバルク文化のヴィスワ川下流域では出土品の減少から、人口がかなり減少したと考えられ、彼らがポメラニア地方の故地を捨てたことを示している。 この頃、ゴート族によるローマ帝国への最初の攻撃〔238年のドナウ川河口に位置するヒストリアに対するもの。〕 が知られている。以後、彼らはダキア、モエシアに幾度となく侵攻を繰り返し、241年にはに現れて保証金をせしめることに成功しているが、皇帝フィリップス・アラブスによって撃退された。しかし、251年、ニコポリスを包囲していたゴート族は、撃退にあたったローマ軍を壊滅させると、フィリッポポリスを陥落させ、さらに迎撃にあたった皇帝デキウスをアブリットゥスの戦いで敗死させるなど、ローマ帝国を苦しめることもあった。ゴート族の南下と定住は、クラウディウス・ゴティクス帝とのナイススの戦いでの大敗と271年にアウレリアヌス帝がダキア属州を割譲することによって停止するが、それまでに黒海東岸の()、トラペズス、ビザンティウム、ニコメディア、エフェソス、テッサロニキ、ロドス島、キプロス島などの諸都市を攻撃している〔 P.ヘーサー『The Goths』p41-p42。〕。 これらのことから、ゴート族が現ポーランド、ポモージェ県でオクシヴィエ文化により発生して、プシェヴォルスク文化のヴィスワ川東岸地方の土地の文化の影響を受けながらヴィェルバルク文化の段階に発展しつつ黒海沿岸部へ移動し、当地でチェルニャヒーウ文化の影響を受けての段階へ移行したことは、ほぼ確実である。しかし、ヨルダネスの記述にあるように一王の世代で成されたものではなく、また、各文化それぞれの特質から見られるように、ゴート族の大移動は、ゴート族のほかスラヴ人の部族やサルマタイ人の部族などいくつかの部族が融合して行われたものらしい。なぜ彼らが移動したのかという理由については確定していないが、東ポメラニア地方という、大半が砂地で土地が肥沃でない一帯に発展したオクシヴィエ文化時代からその主な生業が土地に根付いた産業であるところの農業ではなく、遠方へ出かけて交易を行い食料や生活必需品を手に入れてくる商取引であったことから、南下したほうが黒海沿岸の経済的に豊かな地方との交易に有利だという考えがあったことが第一に推測される。 なお、ゴート族が現ポーランドのポモージェ県に住んでいた以前にはスカンディナヴィア半島にいたという推測についてはまだ証拠が見つかっていない。近世からのいわゆる「ゴート起源説」は、スカンディナヴィア半島の南部一帯に「ゴート」と似たような名称が見られたこと、とくにゴトランド島の名称から、ゴート族はゴトランド島から発生してスカンディナヴィア半島に渡り、その後ゲルマニアへと向かったとする説をもとにしたロマン主義的伝説にすぎない。この仮説は20世紀に入ってもまことしやかに伝えられ、当時の考古学界ではゲルマン民族主義的な先入観が支配しこれがほぼ定説化していた。しかしこの仮説を裏付ける考古学的証拠は未だいっさい見つかっておらず、反対にこれまで発見された遺跡はことごとく、ポーランドのゴート族の文化とスカンディナヴィアの文化がかなり異なることばかりを示している。しかもオクシヴィエ文化は、ドイツ西北部に発展しゲルマン語派の成立に決定的だと見られているヤストルフ文化の一部が東進し、イリュリア・原スラヴ系文化であるポメラニア文化圏のバルト海沿岸地域の地方文化と融合した結果成立したものであり、当時のスカンディナヴィア地方の文化(House Urns culture)からの強い影響は見られない。〔Kaliff, Anders. 2001. Gothic Connections. Contacts between eastern Scandinavia and the southern Baltic coast 1000 BC – 500 AD. Occational Papers in Archaeology 26. Uppsala. , OPIA 26 - Uppsala University〕 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゴート族」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Goths 」があります。 スポンサード リンク
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