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ゴート戦争〔マラヴァル(2005),p.83.;ギボン(1996),p.135.〕(ゴートせんそう、、)は、東ローマ帝国と東ゴート王国の間でイタリア半島とその隣接地域のダルマチア、サルデーニャ、シチリアおよびコルシカにおいて535年から554年まで行われた戦争である。 この戦争は一般に二つの期間に分けられる。第一期(535年-540年)は東ローマ軍の侵攻からベリサリウスによるラヴェンナの占領と東ローマ帝国による一応のイタリア征服で終わり、そして第二期(540年/541年-554年)はトーティラ王のもとで東ゴート族の抵抗が再起し、長期にわたる苦闘の後にナルセスによって制圧されるまでであり、ナルセスはさらに554年のフランク族とアラマンニ族の侵攻も撃破した。しかしながら、北イタリアの多くの都市が560年代初頭まで抵抗を続けている。 戦争は、前世紀に蛮族の侵入によって失われたかつての西ローマ帝国の属州を回復しようとする東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世の野望に端を発している(民族移動時代も参照)〔増田(1948),p.154,157.〕。長期間にわたる戦争によってイタリアは荒廃し、戦災と飢餓そして疫病によって人口も激減してしまい〔増田(1948),p.156,165.〕、東ローマ帝国の国力も使い果たされた〔井上他(2009),p.48.〕。そのため、東ローマ帝国は568年のランゴバルド族の侵攻に抗することができず、イタリア半島の大部分が失われることになった〔井上他(2009),pp.49-50.〕。 == 背景 == 476年、オドアケルが西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを追放し、自らをイタリア王(''rex Italiae'')と宣言して西ローマ帝国は滅亡した。オドアケルは東ローマ皇帝ゼノンの名目的な主権は認めていたものの、彼の独立志向と勢力の増大はコンスタンティノープルの目には脅威と映った。この頃、テオドリック王の東ゴート族は帝国の同盟部族(フォエデラティ)としてバルカン半島西部に定住していたものの、東ローマ帝国領に対する略奪を再開し始めていた〔マラヴァル(2005),pp.83-84.〕。ゼノン帝は「一石を投じて二羽を仕留める」ことを決心し、オドアケルを排除すべく東ゴート族を帝国の代理人としてイタリアに赴かせ、テオドリックの東ゴート族はオドアケルを撃破して、イタリアを支配下においた〔。しかしながら、テオドリックとゼノン帝そしてその後継者のアナスタシウス1世との協定に従って、領土と住民は依然として帝国の一部と見なされ、テオドリックは総督と管区軍司令官(マギステル・ミリトゥム)の役割で満足していた〔Bury(1923), Vol. II, Ch. XIII,pp.453-454.〕。 この協定はテオドリックによって遵守され、行政は従来のまま継続されてローマ人によって運営され、立法権は皇帝に保持されていた〔Bury(1923), Vol. II, Ch. XIII,pp.454-455.〕。一方で、軍隊は完全に東ゴート族に握られ、彼らは自らの首長たちと宮廷に従っていた〔Bury(1923), Vol. II, Ch. XIII, pp.456-457.〕。二つの人民は信仰によってさらに別たれており、ローマ人はカトリック(両性説)であり、東ゴート族はアリウス派であった。もっとも、ヴァンダル族や初期の西ゴート族と違い、かなりの宗教的寛容が行われていた〔Bury(1923),Vol. II, Ch. XIII,p.459.〕。この複雑な二元制度はローマ貴族層を疎外することなく自らの政策を実施する術を知る賢明かつ強い指導力を持つテオドリックによって効果的に働いていたが、彼の晩年には崩れ始め、彼の後継者たちの代に完全に瓦解した。 ユスティヌス1世が即位して「アカキオスの分離」が終わり、教会の統一が回復すると、アリウス派は危機感を持ち、東ローマ帝国やローマ教皇の意図に疑念を持つようになった〔マラヴァル(2005),p.86.〕。ローマ人に対して疑念を持ったテオドリックは524年に宰相ボエティウスを処刑し、これに対し、東ローマはコンスタンティノープルのアリウス派を処刑する〔。 526年8月にテオドリックが死去して孫のアタラリックが後を継いだ。アタラリックがまだ幼少であったため、母のアマラスンタ(テオドリックの娘)が摂政の地位に就き、ローマの教育を受けた彼女は元老院および帝国との和解政策を執った〔Bury(1923),Vol. II, Ch. XVIII,p. 159.〕。これらの政策そして彼女が息子にローマ風の教育を施していたことは東ゴート族には不評であり、彼らは彼女に対する陰謀を企て始めた〔松谷(2003),pp.141-142.〕。危険を察知したアマラスンタは陰謀の首謀者三名を処刑したが〔松谷(2003),p.142.;ギボン(1996),p.179.〕、一方で皇帝に書簡を送り、もしも彼女がイタリアから逃れざる得なくなれば庇護を与えてくれるよう求めている〔Bury(1923),Vol. II, Ch. XVIII, pp. 160-161.〕。結局、534年に息子のアタラリックが死去してもアマラスンタは実権を握り続け、彼女は従弟のテオダハドを共同統治者に任命した〔松谷(2003),pp.143-144.;ギボン(1996),pp.179-180.〕。これは致命的な誤りとなり、テオダハドは間もなく彼女を逮捕し、535年初めに暗殺してしまった〔Bury(1923),Vol. II, Ch. XVIII, pp. 163-165;ギボン(1996),pp.179-180〕。 これより前の533年にユスティニアヌス1世(ユスティヌス1世の甥で後継者)はヴァンダル王国の内紛を利用して北アフリカ諸州を回復すべく最も有能な将軍ベリサリウスを派遣していた。このヴァンダル戦争は思いがけず迅速かつ決定的な勝利に終わり、ユスティニアヌス帝の西方諸州回復の野望を励ますことになったのは疑い無い。この戦争に際してアマラスンタは東ローマ艦隊の作戦基地として東ゴート領のシチリア諸港の使用を認めていた〔松谷(2003),pp.144-145.;マラヴァル(2005),p.74.〕。ユスティニアヌス帝は使節を通じてアマラスンタの命を救おうとしたが〔皇后テオドラは美しいアマラスンタがユスティニアヌス帝の寵愛を受ける恐れがあると危惧しており、使節には彼女の暗殺を曖昧に指示していた。ギボン(1996),p.181.〕、無駄に終わった〔Bury(1923),Vol. II, Ch. XVIII, p. 164.〕。いずれにせよ、アマラスンタの死はユスティニアヌス帝に絶好の口実を与えた〔松谷(2003),p.148.〕。「治世の9年目にあって、アマラスンタの身に起こったことを知るやいなや彼は戦争を始めた」と歴史家プロコピオスは述べている〔Procopius,I.V.1〕。 ベリサリウスが最高司令官(''stratēgos avtokratōr'')に任命されて兵7,500とともにイタリアへ派遣され、イリュリクム管区軍司令官(''magister militum per Illyricum'')のムンドゥス(アッティラの孫を名乗るフン族の将軍〔松谷(2003),p.149.〕)にはダルマチア占領の任務が与えられた〔マラヴァル(2005),p.88.〕。この時、ベリサリウスに与えられた兵力はヴァンダル族との戦争の時よりも寡兵であり、強力な東ゴート王国を倒すには不十分なものだった〔ギボン(1996),p.181.〕。作戦準備が極秘裏に進められる一方で、ユスティニアヌス帝はフランク族に贈物と黄金を贈り彼らの中立を確保しようとしていた〔Bury(1923),Vol. II, Ch. XVIII, pp. 170-171.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ゴート戦争」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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