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サウスカロライナ州の歴史 : ウィキペディア日本語版
サウスカロライナ州の歴史[さうすかろらいなしゅうのれきし]
サウスカロライナ州の歴史(サウスカロライナしゅうのれきし、英:History of South Carolina)では、現在のアメリカ合衆国サウスカロライナ州の地域に、少なくとも紀元前1万3千年に先住民族が住み着いてからの歴史を概説する。
== 概要 ==
サウスカロライナはアメリカ合衆国独立時13植民地の1つであった。その歴史は海外の諸外国からも連邦政府の支配からも政治的独立にむけた非凡な関わり方で特徴づけられる。重商主義奴隷貿易の礎石として、南北戦争の火薬樽として、ジム・クロウ法の本家として、またディキシークラット(南部の民主党離反派)運動の心臓部として、サウスカロライナの歴史はアメリカにおける集中排除(反連邦主義)の縮図であり続けた。
現在サウスカロライナ州となっている地域に人が住み始めたのは少なくとも紀元前1万3千年(道具を制作する遊牧民が物資的遺跡を残し始めた)であるが、記録に残る歴史はエルナンド・デ・ソトが訪れた1540年に始まる。
カロライナの領主植民地1670年チャールズタウンに、イギリス植民地の一つであったバルバドスから移民が入植したのが始まりであった。植民地の初期から領主に対する不満が存在した。1715年から1717年にかけてのヤマシー戦争の後、開拓者は領主制を打倒した。1719年、植民地は公式に王室領植民地となったが、領主達は1729年までその権利を保持した。
カロライナの北部と南部の違いは領主支配の間も認識されていた。南北それぞれに別の政府が設立された。2つの植民地の事実上の分割は1729年に王室領として認められたときに正式のものになった。
サウスカロライナは1776年3月15日にイギリスからの独立を宣言し、独自の政府を打ち立てた。アメリカ独立宣言に署名することによりアメリカ合衆国に加盟した。2年間、そのプレジデントはジョン・ラトリッジであり、後に知事になった。1778年2月5日、アメリカでは最初の憲法となる連合規約を批准することでは最初の邦となった。
1860年に反奴隷制を綱領とするエイブラハム・リンカーンが大統領に選ばれ、サウスカロライナ州は即座にまた注目に値する全会一致で合衆国からの脱退を決めた。1860年12月24日、合衆国を離れる最初の州となった。翌年2月にはアメリカ連合国に加盟した。4月には南北戦争が始まり、南軍はチャールストンにある北軍のサムター砦を攻撃した。
南軍が敗北した後、サウスカロライナはレコンストラクションを経験した。解放されたアフリカ系アメリカ人や貧乏な白人がレコンストラクション中に恩恵を受け、公民権を拡大し、公的教育制度を作って予算化し、社会福祉制度を作った。サウスカロライナで成立した憲法は27年間修正無しで保たれ、レコンストラクション中に制定された法律はそれよりも長く続いた〔 W.E.B.Du Bois, ''Black Reconstruction in America, 1860-1880'', New York: 1935, Free Press edition, 1998, p.598. 〕。アフリカ系アメリカ人の進歩は短命に終わった。白人農園主が支配者として復帰すると、ジム・クロウ法を成立させ、これは特にサウスカロライナでは厳しいものであって、公的な場でアフリカ系アメリカ人を分離し、その労働者の運動を支配した。世紀の変わり目には、アフリカ系アメリカ人の権利を実質的に制限する法律を通した。サウスカロライナでは南北戦争の前からアフリカ系アメリカ人が多数派であったが、リンドン・ジョンソン大統領の任期中の1964年に公民権法の下で保護を回復するまで、その権利は制限されたままであった。
1865年から1940年までサウスカロライナ州は貧しかった。公的教育の予算が足りず、特にアフリカ系アメリカ人の教育水準は低かった。大半の人々は農園で暮らし綿花を育てた。より潤っていたのは土地所有者であり、小作人すなわちシェアクロッパーが農作業を行う農地にその土地を分割するとともに、雇用した労働力で自分の土地も耕作させた。ピードモント地区に徐々に工業化の波が伝わり、綿花を布地にさらに衣類に変えて国内市場に売る繊維工場ができた。
政治的には、サウスカロライナはソリッド・サウスの一部であった。アフリカ系アメリカ人は税金を払い他の市民の義務を支えたにも拘わらず、その権利は制限されており、1900年から1960年代遅くまで黒人の役人は選ばれなかった。白人はジム・クロウ法時代に人種差別を厳格に強制し、アフリカ系アメリカ人が教育を受ける機会、代表となり自由に公的活動を行う機会を制限した。1960年代の公民権法は人種差別を終わらせ、アフリカ系アメリカ人や他の少数民族の選挙権を保護した。
綿花が支配する時代は1950年代までに終わった。州中に工場が建てられ、農夫の大多数は農業から離れた。2000年まで、大統領選挙では頑なに共和党を支持してきたが、州および地方政府の選挙では2大政党が争ってきた。人口は増え続け2000年には400万人に達し、海岸地区は観光客や現役を退いた人には一等地となった。貧窮率は13.5%であり、国平均の11.7%より少し悪い程度である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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