|
サクラホクトオーは日本の競走馬、種牡馬。1988年の朝日杯3歳ステークスがおもな勝ち鞍である。 == 概要 == ※年齢はすべて旧表記(数え年)にて記載 サクラホクトオーは、父がトウショウボーイ、兄に1988年の日本ダービー優勝馬サクラチヨノオーを持つことからデビュー前から期待されていた。デビュー後は新馬戦、府中3歳ステークス(当時はオープン特別)、朝日杯3歳ステークスと無傷の3連勝を飾り、翌年のダービー候補となり兄弟制覇も期待された。馬名は兄・チヨノオーが大相撲の横綱・千代の富士貢にあやかったものであったため、千代の富士の九重部屋での弟弟子でやはり横綱の北勝海信芳にあやかって命名された。 翌1989年は兄も勝った弥生賞からの始動となった。単勝1.4倍と圧倒的な人気となったが、中山競馬場の芝コースは大雨によって水が浮くほどの不良馬場となっていた。レースが始まるといつものように後方に付けたが、その後まったく伸びず16頭立て12着と惨敗した。続く皐月賞では3.0倍の1番人気に推されたが、レース当日の朝まで雨が降りまたしても不良馬場となってしまい、加えてサクラホクトオーの馬番は最内枠の1番と、皐月賞においては圧倒的に不利(皐月賞が行われる時期の内ラチ沿いの馬場は「ボコボコ」と言えるほど荒れる傾向にあるため)とされる馬番だったことも災いし、20頭立ての19着(1頭競走中止しており、事実上最下位)とまたしても惨敗した。 目標でもあった日本ダービーでは単勝9.9倍の5番人気にまで評価が落ちていた。ただ、この年の日本ダービーの1番人気はロングシンホニーの6.0倍であったように完全に人気が割れていた。しかし良馬場で行われた日本ダービーも内にササる(突然内側に斜行する)などでウィナーズサークルの9着と惨敗した。 夏は休養にあて、秋はセントライト記念からスタートした。やや重馬場、春の惨敗などもあって人気はなかったが勝利し、ふたたび菊花賞候補となった。 菊花賞では5番人気であった。直線に入るとサクラホクトオーは馬場の切れ目に驚いて外ラチぎりぎりまですっ飛んでしまい、外ラチいっぱいに追い込んできたが5着に敗れた。それでも勝ったバンブービギンとは0.4秒差であった。 その後は有馬記念をイナリワンの3着と好走、翌1990年もアメリカジョッキークラブカップを制し、続く産経大阪杯、天皇賞(春)にも出走したが、ともにスーパークリークに完敗した。脚部不安による1年あまりの休養のあと、京王杯スプリングカップで復帰し2番人気に支持されるも9着と敗れ、続く安田記念では小島に代わり木藤隆行の騎乗で出走(4番人気)したがダイイチルビーの14着と惨敗、これが最後のレースとなった。結局、クラシック以降のGIとは縁がなく引退している。上記の通り重馬場が苦手だったうえ、良馬場の発表であっても出走時には雨が降ってくることが多かった。逆に、雨が予想されたレースを回避したところ、晴れて良馬場でレースが行われたといったこともあった。 種牡馬としてはトウショウボーイの後継馬の一頭としてかなりの人気を集めたが、サクラスピードオー(1996年共同通信杯4歳ステークス)を出した程度にとどまった。2000年3月16日に腸捻転により死亡した。墓は北海道静内町の新和牧場に建てられた。ちなみに仔のサクラスピードオーは、父自身も皐月賞で対戦したミスタートウジンと対戦したことがあるが、結果は父と同じく先着を許してしまった(1998年2月22日の銀嶺ステークス〈14頭立て〉。成績はサクラスピードオー13着、ミスタートウジン8着。父は皐月賞〈20頭立て〉では19着、ミスタートウジン13着)。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サクラホクトオー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|