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谷川 貞治(たにかわ さだはる、男性、1961年9月27日 - )は、日本の格闘技プロモーター・プロデューサー、元雑誌編集者、元スポーツライター。イベント興行会社FEG社長、元K-1イベントプロデューサー。愛知県名古屋市出身。千葉県在住。 == 来歴 == 名古屋市立八王子中学校、愛知県立旭丘高等学校、日本大学法学部政治経済学科卒業。中学、高校とハンドボールに打ち込み、主将を務めた〔隠れハンドボーラー・K-1谷川プロデューサーが解説志願! スポーツ報知 2008年1月27日〕。大学時代には、アメリカンフットボールで活躍した〔『GONKAKU』2008年3月号。谷川貞治インタビュー記事のプロフィール。〕〔『KAWADE夢ムック PRIDE 最強の証明』ドリームステージエンターテインメント監修、河出書房新社、2002年、p83。〕〔清野茂樹「TBS格闘技 ウェブ放送席 第9回「K-1 WORLD MAX 2008世界一決定トーナメント決勝戦」編 」〕。 大学卒業後、ベースボール・マガジン社入社、空手専門誌『近代空手』編集部に配属〔『格闘技通信』2008年8月号、ベースボール・マガジン社。谷川と本多誠編集長との対談より。〕。『格闘技通信』には創刊号から記事を執筆し、所属していた『近代空手』が『格闘技通信』に合併されたのに伴い、1987年から正式に同編集部へ配属され〔「本誌歴代編集長が勢揃い・400号企画 六者六様 前編」『格闘技通信』2006年7月8日号、ベースボール・マガジン社。〕、1990年から2代目編集長に就任した。当時の別名はサダハルンバ谷川。 1996年の春にベースボール・マガジン社を退社。『紙のプロレス』発行人の柳沢忠之らと、株式会社ローデス(Rhodes)を立ち上げ、専務取締役に就任。プロレス・格闘技専門チャンネル・FIGHTING TV サムライの立ち上げスタッフとして参加。パーフェクTV!(現・スカパー!)開局に伴い、編成部長の職に就いた〔『別冊宝島 プロレス謎読本』宝島社、1996年、p96.〕。 サムライTVでは柳沢忠之と開局イベントで失敗。予算編成を一桁間違え、運営会社の三井物産に大打撃を与えてしまい、開局後直ぐにFIGHTING TV サムライから外れる。その後は、フジテレビの格闘技情報番組『SRS』に格闘技評論家としてコメンテーターを務める傍ら、柳沢と共に「株式会社ローデス」を設立して専務取締役になった。1997年創刊の『格闘ゲリラマガジン』、1998年創刊の『格闘パンチ』といった短命に終わった格闘技雑誌の編集長を経て、1999年に扶桑社から格闘技専門誌『SRS-DX』を創刊して、2003年9月の休刊まで編集長を務めた。 K-1の前プロデューサー石井和義とは『格闘技通信』編集長時代からアドバイザー的な立場にあり、当時入手困難だったK-1のチケットを『格闘技通信』誌上で販売〔西田健『K-1&格闘技の"真実"』コアラブックス、1997年、p32-p33.〕。さらに、石井からはK-1のマッチメイクの業務委託を受けていた〔『格闘技通信』2008年8月号。〕。石井からの信頼も厚く、ケイ・ワン脱税事件後の2003年1月にK-1イベントプロデューサーと、新たに設立されたK-1運営会社FEGの社長にも就任した。 2003年にK-1ラスベガス大会でボブ・サップとキモが対戦したときは、会場がキモコールで沸き立つなか、谷川は「(サップの愛称である)ビーストコールですね」とコメントしていた。この台詞はテレビ解説を務める際に中立性を欠いて特定の選手を贔屓しがちな谷川への皮肉を込めてインターネット上に浸透している。 英語の実力にはかなり不安があるようで、英語が流暢な角田信朗に対して「悔しいですね」と嫉妬の念を込めて発言していた。 総合格闘技イベントのPRIDEにも関わりが深く、運営に参加するという話はあったものの間接的にサポートすることになり、フジテレビにPRIDEを放送するよう進言。格闘技情報番組『SRS』でPRIDEの情報を流したり、フジテレビで中継番組が実現した際にはテレビ解説者を務めるなどした〔『kamipro special 2008 July』エンターブレイン、2008年。谷川と笹原圭一の対談より。〕。PRIDEのマッチメイク会議に参加するなどしたが、2003年5月にPRIDE.26でミルコ・クロコップとヒース・ヒーリングの対戦が秘密裏に決定して、K-1とPRIDEの関係が悪化した〔『紙のプロレスRADICAL』』No.91号、2005年。今井賢一インタビュー。〕のを機にPRIDEからは離れている。 その後、優れた外国人格闘家を大量にPRIDEに引き抜かれた谷川は、ボビー・オロゴンなどのタレントファイターや曙など身体が大きくて実力よりも話題性のある選手を起用することでPRIDEに対抗した。 2000年代後半あたりは、タレント、モンスター路線に拒絶反応を起こし始めたファンを取り戻すために、実力派ファイターを発掘し始めている。 K-1に加えて総合格闘技にも進出し、2005年から2007年まではHERO'Sを運営、2008年から2011年にかけてはHERO'Sの後継団体であるDREAMも運営していた。 2009年3月22日、東京マラソン2009に出場し、6時間12分50秒で完走した〔魔裟斗がマラソン完走「今年はやりたいことがある」 K-1 公式サイト 2009年3月22日〕。 モンスター路線から競技路線へとシフトし始めて以降は、世界進出を目指して各地で大会を開催したり、レフェリーである角田信朗がたびたびルールを無視した独断専行をするたびに苦言を呈したりしている。 2012年4月5日、K-1の商標がK-1グローバル・ホールディングスに移行したことに伴い、K-1プロデューサーを辞任したことを発表した〔K-1の現状と今後について -- 谷川貞治より K-1 公式サイト 2012年4月5日〕。同年10月25日、K‐1の運営会社「FEG」が破産したことについての真相を暴露した自著「平謝り―K‐1凋落、本当の理由」を出版し、その著書にはK-1を立ち上げる前の正道会館時代から石井和義にアドバイスをしながら2人で格闘技通信の誌上で意図的にブームの火付けを演じた内幕、FEGは大会の運営会社であってK-1という団体・競技ブランドそのものの権利は石井が持っていたという説、4年間給与を受け取らず各種未払いに身銭を切った時期があるという主張が記述されていた。 以後も2013年12月に開催された「GLORY 13 TOKYO」でゲストプロデューサーを務めるなど、表舞台に出る機会こそ減ったものの、格闘技関連に関わり続けている。 2015年、新格闘技イベント「巌流島」発足に関わり、格闘技界に本格的復帰を果たす〔新たな異種格闘技イベント「巌流島」発足 スポーツナビ 2014年11月17日〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「谷川貞治」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sadaharu Tanikawa 」があります。 スポンサード リンク
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