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サダーシヴァ・ラーヤ(テルグ語:సదాశివ రాయలు, タミル語:சதாசிவ ராயன், Sadasiva Raya, 生年不詳 - 1576年)は、南インドのヴィジャヤナガル王国、トゥルヴァ朝の君主(在位:1542年 -1569年)。 ==生涯== ヴィジャヤナガル王国の摂政トゥルヴァ・ナラサー・ナーヤカの息子ランガ・ラーヤの息子として生まれた。 1542年、ヴィジャヤナガル王アチュタ・デーヴァ・ラーヤの死後、その息子ヴェンカタ1世が王位を継承した。だが、彼はまもなくその摂政であったサラカラージュ・チンナ・ティルマラに殺害され、多くの王族もともに殺害されたが、サダーシヴァ・ラーヤは運よくグッティ城に逃げることに成功した〔Short biography of Venkata-I (A.D. 1542) 〕。 その後、サダーシヴァ・ラーヤは宮廷の実力者ラーマ・ラーヤ とその弟ティルマラ・デーヴァ・ラーヤに王として擁立されるに至り、ヴィジャヤナガルへと進撃した。 1543年中頃までに、ラーマ・ラーヤはヴィジャヤナガルを制圧し、サダーシヴァ・ラーヤは即位式を挙げ、ヴィジャヤナガル王となった。だが、当然ながら王国の実権は摂政となったラーマ・ラーヤとティルマラ・デーヴァ・ラーヤに握られていた。 1565年1月、ラーマ・ラーヤはデカン・スルタ-ン朝との戦いに斃れ(ターリコータの戦い)、弟のティルマラ・デーヴァ・ラーヤはサダーシヴァ・ラーヤを連れ、南方のペヌコンダへ遷都する形で避難した。 1569年、サダーシヴァ・ラーヤは摂政ティルマラ・デーヴァ・ラーヤに王位を簒奪され、ここにトゥルヴァ朝は滅亡し、新たにアーラヴィードゥ朝が創始されることとなった。 サダーシヴァ・ラーヤは王位を簒奪されたのち、1576年まで生存していたという〔 TELINGA - ANDHRA HISTORY 〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サダーシヴァ・ラーヤ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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