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サッカーの歴史 : ウィキペディア日本語版
サッカーの歴史[さっかーのれきし]

サッカー (Soccer) もしくはフットボール (Football) はイギリスで中世に行われていたにその起源を持つ。現代のサッカーは1863年にロンドンで設立されたフットボール・アソシエーション (The FA) の設立にその起源を持つ。FAは試合の様々な要素を標準化するための基礎を作った。これはサッカークラブに対して、互いに争いを起こすことなくプレーすることを可能にした。特にフィールド内にいる選手が手でボールに触れることと、ハッキングを禁じたルールは協会の5回目の会合の後に策定された(この時点でアソシエーション・フットボールとラグビー・フットボールが分離した)。当時、フットボールクラブは彼らが指定する独自のルールに従ってプレーし、試合中に適用されるルールは通常試合が開催される前に対戦相手の間で合意がなされていた。例えば、シェフィールド地区ではという独自のルールによってほとんどの試合が行われていた。
==フットボール・アソシエーション==


1848年、ケンブリッジ大学で初のルール策定がなされたが、これはアソシエーション・フットボールを含む後に制定される規定の発展に特に影響をもたらした。ケンブリッジルールトリニティ・カレッジで作成されたものであり、イートン校シュルーズベリー校ハーロー校ラグビー校ウィンチェスター校などの学校の代表者が出席して行われた会合で定められたものであった。彼らは統一ルールを定めたわけではなく、1850年代、様々な形式のフットボールをプレーするために、高校や大学と結びつきのない多くのフットボール・クラブが英語圏で設立された。また、独自のルールを制定して試合を行うものもおり、パブリックスクールの卒業生により1857年に設立されたシェフィールド・フットボール・クラブはその代表格であった。これにより1867年にシェフィールドサッカー協会が設立されることとなった。
1860年代前半、イングランドにおいて北部工業地帯で適用されていたシェフィールド・ルールとともに、パブリックスクールで行われていた様々なフットボールの試合のルールを統一、調整する試みが行われるようになった。1862年、オリジナルのケンブリッジルールに則って試合をするべきだとしていたの代表者J. C.スリングはシンプレスト・ゲームズと呼ばれる独自のルールを策定した(通称、アッピンガムルールズ)。1863年10月初め、ケンブリッジルールの改訂版がイートン校、シュルーズベリー校、ハーロー校、ラグビー校、、ウェストミンスター・カレッジの卒業生代表で構成される7校委員会で策定された。

ハル出身の事務弁護士であったは1863年に新聞の「」に寄稿し、フットボールの団体を作る提案を行った。モーリーはFA初代秘書 (1863-66) となり、FA第二代会長 (1867-74) となったが、彼は特に自宅のあったロンドンのにおいて、今日世界中でプレーされているサッカーに関する初のサッカー競技規則の暫定案をまとめた〔人物として後世にその名を残している。このため、彼は単にフットボール・アソシエーションの父というだけでなくサッカー自体の父と考えられている。
チャーターハウスはアソシエーション・フットボールを設立させるための歴史的な呼びかけを行った。この頃、パブリックスクールではフットボールは冬場の主流スポーツであった。1840年代、チャーターハウスとウェストミンスター・スクールの生徒の取り巻きは回廊でフットボールをプレーする際に制限されるという意味の発言を行い、ラグビー校のような他の学校で発展していた、ラフプレーで転倒するようなハンドリングゲームは不可能であるとし、新たなルール策定を希望していた。アソシエーション・フットボールのルール策定が行われた1860年代に、チャーターハウスとウェストミンスター校の代表者はパスゲームに対する推奨を行い、特にボール保持者の前方へとパスをすることを許すルールを策定した。その他の学校(特にイートン校、シュルーズベリー校、ハーロー校)は厳しいオフサイドルールを用いたドリブルによるゲームを好んだ。の見習い労働者がストーク・オン・トレントにいた1863年、チャーターハウス校の卒業生はストーク・ランブラーズというサッカークラブを設立した。1867年、フットボール・アソシエーションはチャーターハウスとウェストミンスター校の試合を好意的にとらえ、前方にパスを送ることを認める「ルーズ」なオフサイドルールを採択した〔Marples, Morris. A History of Football, Secker and Warburg, London 1954, page 150〕。現代の前方へパスを出すことを許可するルールはチャーターハウスとウェストミンスター校の試合のルールが直接反映されたものとなっている。
1863年10月26日の夕方、グレーター・ロンドン地区の11のサッカークラブの代表がコヴェント・ガーデンのロングエーカーにあるで会合を行った。これはフットボール・アソシエーション (FA) の初会合となった。FAは世界初の公式のサッカー団体であったため、団体名の前に「イングランド」という名称をつけていない。チャーターハウス校は招待参加を受け入れた唯一のパブリックスクールであった。初会合は協会に参加するパブリックスクールの代表による要望を出す場となった。アッピンガムのスリングを除いて、ほとんどの学校は加盟を断った。FAの6回目の会合は1863年10月から12月までの間に開催された。委員会メンバーのJ. F.アルコックは「ケンブリッジルールは協会による採用が最も望ましいように感じる」と述べた。
3回目の会合の後、ルール案の暫定案がFAにより出版された。しかし、4回目の会合の始まりに際し、直近であった1863年に出版されたケンブリッジルールに対する注意が呼びかけられた。ケンブリッジルールはFAの暫定案と2つの点で大きく異なっていた。一つは「ボールを持って(運んで)走る」点であり、もう一つは「ハッキング(相手の選手のすねをける行為)」であった。以下に焦点となったFAルールを示す。

5回目の会合において、これら2つのルールがFAルールから除去することが提案された。ほとんどの代表者がこの提案を支持したが、の代表者でありFA初代会計であったF. W.キャンベルは強硬に反対した。彼は「ハッキングは真のフットボールである。」といった。これにもかかわらず提案は実行され、最終会合において、キャンベルは彼のクラブをFAから撤退させた。12月8日に行われた最終会合の後、FAは「サッカーの規則」を出版した。これは後にアソシエーション・フットボールとして知られるゲームの初の包括的なルールセットとなった。そして、これにより「サッカー」と「ラグビー」は完全に別の競技として袂を分かつこととなった〔。同時期にラグビールールによるフットボールを行なっていた人々が短縮形で「ラガー」と呼んでいたように「アソシエーション」の短縮形として「サッカー」と呼ばれていたこの球技は、イングランドのフットボールという球技において中心的な存在となり、サッカーよりもフットボールと呼ばれることが増えていった。また、「サッカー」は今日アソシエーション・フットボール以外のフットボールが盛んな国々において、アソシエーション・フットボールを指す一般的な用語として使用されている。
これらの初のFAルールは依然としてその他のフットボール(ラグビーオージーフットボール)であると認識されるような、アソシエーション・フットボールではない要素を含んでいた。例えば、選手はフェアキャッチをしてマークを宣言することができるというルールである。これはフリーキックという名称を付けられていた。また、選手が敵のゴールラインより向こう側でボールに手で触れた場合、ゴールライン手前15ヤードからゴールへの「フリーキック」が与えられるルールもあった。
FAのメンバーにより承認されたサッカー競技規則はピッチの最大の横幅と縦幅、キックオフの手順、ゴールやスローイン、オフサイドなどの用語の定義に関して規定していた。ボールを手でパスすることは依然として認められており、ボールを「正しく1バウンドで」捉えることが要求された。足に装着するものの規定として「先の尖った釘、鉄板、ガタパーチャ」を使用してはならないという規定があったにもかかわらず、選手の数、罰則、ファウル行為、ボールの形状に関する特別な規定は存在せず、ボールのサイズや重さなどの形状が標準化されるまでにはさらに9年を要することとなった。それまでの間、参加チームの代表はこれらの規定に関して試合前に合意を持つことが想定されていた〔。また、ゴールキックは1869年に、コーナーキックは1872年に、試合のキックオフの際に主審が笛を吹いて開始とするルールは1878年に導入される〔といったように1863年のルール制定後も度々ルールが追加された後、1891年には当時「the kick of death」と呼ばれた、ペナルティーエリア内で反則を犯した場合に与えられるペナルティーキック(PK)が導入されることとなった〔。また、この際不満が起きないよう双方のチームからアンパイアを出すこととなったが、これは後にラインズマン、そして現代の副審へと発展していくこととなった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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