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『サテライトNo.1』(サテライトナンバーワン)は、中国放送(RCCラジオ)制作で放送されていた公開ラジオ番組。提供元でもある家電販売店の第一産業本店(現・エディオン広島本店〔放送開始当初は「第一産業本店(放送開始から1975年6月)」。後に「ハイライフプラザ第一産業本店(1975年6月から1977年9月)」→「ダイイチ本店(1977年10月から放送終了、『柏村・やすべえ』時代)」と放送期間中に店名は幾度か変更されている。〕)のサテライトスタジオより公開生放送が行われた。司会は柏村武昭。 == 概要 == 第一産業(現・エディオン)の創業25周年に当たる〔『中国放送の50年 その時、いつもそばにいた』 - 238ページ〕、1972年5月7日に『サテライトX』の仮題で放送開始〔〔『マスコミ人の裏ばなし』 - 105ページ〕。新聞のラジオ欄には「只今タイトル募集中」と番組名が掲示された〔中国新聞 朝刊 ラジオ番組欄 - 1972年5月7日 11ページ〕。その後タイトルは一般公募が行われ〔、1000通の応募の中から同月28日に『サテライトNo.1』とのタイトルが決定〔『中国放送の50年 その時、いつもそばにいた』 - 239ページ〕。放送開始当初は日曜日16時からの1時間放送で〔、後に日曜日17時からの1時間放送になり、1988年4月27日まで放送された〔『中国放送の50年 その時、いつもそばにいた』 - 240ページ〕。 タイトルの「No.1」は、エディオンの源流会社の一つのデオデオの旧社名「第一産業」の「第一」が由来になっている〔『私とデオデオ5 「サテライト No.1」は一生をささげた仕事。もう一度あの番組を新しいデオデオでやってみたい。 柏村武昭さん・洋子さん』 - 中国新聞 朝刊 2012年6月8日 24ページ 広告〕。 日本各地で評判だった〔『中国放送の50年 その時、いつもそばにいた』 - 237ページ〕、広島初のサテライトスタジオからの放送で〔、家電の売り上げ促進策の一環として電通と企画〔。電通経由で中国放送に協力を依頼し〔、当時『ビクター・ミュージック・ホリデー』で人気が出始めていた柏村武昭(当時・RCCアナウンサー)を起用した〔。 木造の旧店舗時代は、2階のオーディオ売場中央にサテライトスタジオが設けられた〔。当時のスタジオは、2畳ほどの金魚鉢みたいな簡易的な物だった〔。放送開始当時、来場者数の多さに床の補強工事を行った話もある〔。1975年6月22日の現店舗建物のオープンで、7階に本格的なイベント会場が設置され放送された〔〔2000年代に、サテライトスタジオは7階から8階に移動。よしもと紙屋町劇場としても使われている〕。 1975年3月に柏村が中国放送を退社し、土居まさるの個人事務所に所属するフリータレントに転身後も中国放送との優先出演継続を行い出演を続行〔。放送終了まで続投した。 ローカルブロックネット番組として成功を収め聴取率も首位を維持〔。ダイイチの支店網の充実に合わせて、ネット局の拡大や〔、本店のサテライトスタジオの他にもダイイチの支店内や、ダイイチの支店がある地区のホールなどで公開録音が行われた〔。 番組の企画で、『痛快!赤ヘル音頭』や『サテライトNo.1』のレコードが制作・販売〔。1977年には本も出版された〔『マスコミ人の裏ばなし』 - 106ページ〕。 1995年に『柏村・やすべえのサテライトNo.1』(かしわむら やすべえのサテライトナンバーワン)として復活、1年間放送された。 本番組の終了後も、RCCラジオの日曜17時台は『ニンニキ日曜500』や『つないでサン局山陽路』」など、中国5県(4局)や山陽地方のネット番組の放送枠となり、また『ニンニキ日曜500』は本番組から引き続きダイイチの提供で放送された。詳しくは柏村武昭の項を参照のこと。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サテライトNo.1」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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