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サム・ハスキンス : ウィキペディア日本語版
サム・ハスキンス
サム・ハスキンス(Samuel Joseph Haskins、1926年11月11日 - )は、南アフリカ出身の写真家。本名はサミュエル・ジョーゼフ・ハスキンス。
== 人物・来歴 ==
ヌード写真や、モンタージュ写真で知られる。その代表作は『''Cowboy Kate''』(1965年)、『''Haskins Posters''』(1973年)。2000年以降は、''ヴォーグ''、''ハーパース・バザー''、''アリュール Allure''、''ニューヨーク'' などのファッション誌を中心に活動。
1945年-1948年に、The Johannesburg Technical Collegeに学び、芸術一般を学び、写真のパートタイムコースを履修する。その後、1949年-1951年にはロンドンのボルトコート (Bolt Court) にあるLondon School of Printing and Graphic Arts(後にLondon College of Printingと改名。現在のロンドン・カレッジ・オブ・コミュニケーション )に学ぶ。
1952年に、アリダ・エルサビ・ヴァン・ヒエルデン(Alida Elzabe van Heerden)と結婚。長男ルードヴィッヒ(Ludwig、1955年8月4日 - )、次男コンラッド(Konrad、1963年1月26日 - )の二人の息子を持つ。妻アリダは、サムの仕事上のパートナーとして活動するため、結婚後まもなく、ファッション業界の仕事を辞める。アリダは、サムが無名の写真家時代に『''Five Girls''』を出版するためにエージェントを務め、サムが写真家としてキャリアを形成する出発点で重要な役割を果たす。以後アリダは、ハスキンスの全ての出版物に関し、世界中の出版社との交渉を担当している。
1953年にヨハネスブルグにて、広告写真家として活動を始める。アフリカではおそらく最初であろう近代的なフリーランス広告写真スタジオを経営する。商業写真家としては多岐にわたり、静物、商業写真、ファッション、航空写真などに及び活躍をしている。芸術写真家としての最初の活動は、1960年、ヨハネスブルクのデパート、ジョン・オーズ(John Orrs)で開催した個展である。スタジオで撮影したモデルのモノクロ写真に加え、若き芸術家、エリザベス・ラングシュ(Elisabeth Langsch)の制作した人形を撮影した作品も展示。ラングシュは、後年、スイスを代表する陶芸家となる。
1960年代に出版した主な4つの作品集は、ハスキンスの国際的知名度を確立すると同時に、以後の方向性も決定付ける。『Five Girls』(1962年)では、女性ヌード写真への斬新なアプローチをしている。初期モノクロ写真の重要な作品が見られ、構図のカットや書籍デザインには、以降の作品すべてに共通する要素がある。『Cowboy Kate』(1964年)は、表現とイメージデザインの手段としてモノクロ写真を採用した、20世紀でおそらく最初の芸術的モノクロ写真集である。当時多大な影響を与え、全世界で約100万部が売れた同作品は、1964年にフランスナダール賞(Prix Nadar)を受賞。出版から50年以上を経た今も、写真家、映画監督、ファッションデザイナー、メークアップアーチストなどに影響を与え続けている。
初版本は部数が少なく、コレクターの間では3,000USドル近くで売買されていたため、ハスキンスは、デジタルリマスターの「ディレクターズカット」版を、2006年10月にニューヨークのリソリ社(Rizzoli)から出版。新版『Cowboy Kate』には、イメージ編集とレイアウト修正に加え、新しい作品が16ページ分追加されている。
『November Girl』(1966年)には、1970−1980年代のグラフィック作品やシュールレアリストの実験スタイルの多くの土台となるコラージュ作品の数々が見られる。『African Image』(1967年)は、サハラ以南のアフリカの人々、文化、風景、野生動物へのオマージュ的作品。躍動感と刺激にあふれる世界を撮るという、ハスキンスの生涯にわたる興味と、アフリカの工芸品を正式に記録することに向けられた情熱の結晶である。
1968年に、ハスキンスはロンドンに移住し、キングスロード近くのグリーブプレイス(Glebe Place)にスタジオを開く。広告写真家として、国際的企業向けの作品を数多く制作する。顧客は、アサヒペンタックスバカルディカティサーク・ウィスキーホンダBMWヘイグ・ウィスキーデビアスブリティッシュエアウェイズユニリーバザンダーズ(Zanders)など。これらの企業のカレンダーのアートディレートクションと写真撮影も専門に行った。特にペンタックスなどのカレンダーを手がけた。1960年代後半から1970年代初頭までの短期間はハッセルブラッドを支持していたが、ペンタックスの6X7中判カメラとレンズに強い愛着を持ち、製造会社のペンタックスとハスキンスとの間には、長年にわたる稀有な関係が築かれる。旭光学は、1970年から2000年までに30点のカレンダーを作成したが、ハスキンスは、このうちミレニアム版を含む15点の写真撮影とアートディレクションを行った。2回以上カレンダーの写真撮影を担当した写真家は、他にいない。現在も東京のペンタックスフォーラムギャラリーの運営に携わり、ここで個展も開催している。旭光学との最初の出会いは、1967年のこと。ハスキンスがアフリカの写真を複数の他社製品で撮影したことを知った同社が、35ミリカメラを進呈したことにはじまる。
1972年、初のカラー写真集『Haskins Posters 』を出版。同作品は大判で、厚い紙のページに片面のみの印刷、柔らかい糊を使った無線綴じ〔Perfect Bindingと呼ばれる、ペーパーバックや雑誌を綴じる方法〕のため、一枚ずつ外してポスターのように使うことができる。ハスキンスと妻アリダは、自らの出版社、ハスキンス・プレスから同作品を自費出版し、国際的な成功を収める。New York One Showでは金賞を受賞。同作品中の最も有名な一枚は、リンゴの画像に若い女性の顔を重ね、リンゴの茎の近くに蜂がいる作品で、世界中のほぼ全ての主要写真雑誌の表紙や論説記事に登場した。この作品は、1970年代に広く公表された、リンゴのテーマを使った視覚的なグラフィック実験の一部であり、しばしの間写真ジャーナリストは、ハスキンスに「Sam the Apple man」というニックネームを付けた。
『Haskins Posters』には多様な創造的テーマがあるが、その全てが、以降30年間にわたる活動を通じて、ハスキンス独自のイメージが構築され追求されている。力強い構図で、モデルの自然な個性を表すヌード作品である一方、イメージを構築する際に、グラフィックの実験や、ユーモア、官能的なエロチシズムを追求している。ハスキンスは、写真作品の表面、つまり平面的なグラフィック要素に、3D的な明暗法で緊張感を創造するというテーマを繰り返し用いている。(同じ主題の繰返しは、画家として教育を受けたことに根ざしている。)洗練された照明や二重露出のテクニックが、このような効果を可能にしている。照明は、非常に創造的であると同時にデザインを考慮して設定され、スタジオ撮影・屋外撮影を問わず、ほぼ全ての作品で重要な役割を果たしている。ハスキンスは、ひとつのショットのために複雑な照明を編み出すことが多く、同じ設定は二度と使わない。このような照明の最近の例は、「ニューヨーク」誌の75周年記念号に掲載されたファッション写真に見られる。撮影は、2006年8月、ニューヨークのPier 57(第57埠頭)にあるスタジオで行われた〔http://nymag.com/fashion/06/fall/borrowthis/ Fashion shoot]〕〔anniversary 〕 。
ハスキンスは、写真作品のために自身で彫刻やイラストレーションを創作することが多く、シュールレアリズム、イラスト、映画、グラフィックデザインなどの組合せから新たな着想を得ている。
『Haskins Posters』と、それに関連する、ロンドンのPhotographer’s GalleryとNational Theatreで開催された展覧会で初めて見られるグラフィック的実験は、後に『Photo Graphics』(1980年)という書籍にまとめられる〔Photo Graphics 〕 。この題名は写真に関する新語となり、以来広く使われている。
次の作品集、『Sam Haskins á Bologna』(1984年)は、ボローニャ市長から招待を受けて市内を撮影した作品。出版と同時に、同市内で展覧会が開かれた〔Sam Haskins á Bologna 〕 。このプロジェクトは、同様の撮影を、風光明媚なバルセロナ(1991年)とカシミール(1992年-1994年)で行うことにつながった。
2002年、ハスキンスと妻アリダはオーストラリアのサザン・ハイランドに移住し、3番目の住居兼スタジオを建てる。ロンドンからの脱出は、ハスキンスのファッション写真に再生をもたらす。ハスキンスは、キャリアの初期からファッションへの情熱を持ち続け、『Cowboy Kate』に影響を受けたファッションデザイナー達は、その影響に対する謝辞を示している。しかし、当時のファッション業界の主流層は、ハスキンスへの敬愛を示さなかった。ハスキンスも、彼らの賞賛を得ようとは努めなかった、と言って差し支えないだろう。ハスキンスは、2002年にパリで撮影したイブ・サンローランの写真で「再発見」され、その後、ロンドン、ニューヨーク、東京、シドニーで、ファッションデザイナーとファッション誌から数多くの仕事を受ける。
2006年12月、80歳の誕生日の1か月後に、ポートレイトを中心とする最初の回顧展が、オーストラリアのキャンベラにあるナショナル・ポートレイトギャラリーで行われた。これは、国立の美術館またはギャラリーで開催された、初めてのハスキンスの展覧会でもある〔Exhibition National Portrait Gallery - Canberra. First retrospective show.〕 。同展は、2007年4月22日まで4ヶ月にわたり開催された。
展示作品の中には、それまで姿が公表されなかったアーチストのポートレイトが数点ある。うち1点は、ハスキンスが崇拝するグラフィック・アーチスト、ジャン=ミシェル・フォロン(Jean-Michel Folon)の肖像である。ポートレイト作品は、1、2点を除き大部分が未発表作品。長年にわたる芸術家達との出会いと友情から生まれた数多くの作品の中で、静かに発表の時を待っていた作品である。現在、ハスキンスは、50年にわたる活動を集約する本の制作と、展覧会の準備に注力している。同時に、第一線のモデルと女優、そして新人のファッション撮影も、選りすぐって行っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「サム・ハスキンス」の詳細全文を読む



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