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サラエヴォ県(サラエヴォけん、ボスニア語:Kanton Sarajevo、クロアチア語:Sarajevska županija、セルビア語:)、あるいはサラエヴォ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナの構成主体であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県。県都はサラエヴォ。 サラエヴォ県は基本的にはサラエヴォの市街地によって構成されており、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属している。しかし、サラエヴォの一部はボスニア・ヘルツェゴビナのもうひとつの構成体であるスルプスカ共和国に属している。サラエヴォ県はサラエヴォの人口の98%を包含しているが、面積ではその割合はより少なくなる。 == 歴史 == この地域の歴史は新石器時代、ブトミル文化(Butmir)がその拠点をこの丘陵地帯に置いた時点までさかのぼることが出来る。古代、この地域はイリュリア人によって占められていた。地元の部族Daesitatesが地域のほとんどを支配下に置いていた。Daesitatesは戦闘的集団であり、ローマ帝国の支配に抵抗し続けた最後のイリュリア人の部族であった。しかし西暦紀元後9年にはローマ帝国の支配下となった。ローマ帝国支配下では、地域内でも、現在のサラエヴォのイリジャ()にあたる場所で多くの道路が建設された。中世において、サラエヴォ県にあたる地域はボスニア王国の重要拠点となった。ヴルフボスナ()はボスニア王国で最も重要な拠点のひとつであり、この地域のどこかに存在していた。 1461年から1463年にかけて、オスマン帝国の支配下に入り、地元のイスラム教徒の貴族(Isa-Beg Isaković)が現在のサラエヴォへとつながる都市をこの地に築いて以降、この地域は大きく開発が進められることになる。そして大きく成長し、まもなくバルカン半島においてイスタンブルに次いで重要な都市となった。後にこの地域を含むボスニア・ヘルツェゴビナはオーストリア=ハンガリー帝国の支配下となり、地域の近代化、西欧化が進められた。社会主義体制のユーゴスラビアの支配下では、ユーゴスラビア政府によって地域は大きく開発が進められ、その大きさは以前の3倍以上に拡大した。しかしながら、1990年代のユーゴスラビア紛争によって大きく痛手をうけてしまった。 その後、1994年のボシュニャク人勢力とクロアチア人勢力の間で交わされたワシントン合意によって、サラエヴォ県の設置が決定され、1995年のデイトン合意によってその領域が定められた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サラエヴォ県」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Sarajevo Canton 」があります。 スポンサード リンク
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