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アントニオ・サリエリ(Antonio Salieri、1750年8月18日 - 1825年5月7日)はイタリアのレニャーゴ生まれの作曲家。 生前は神聖ローマ皇帝・オーストリア皇帝に仕えるカペルマイスター(宮廷楽長)としてヨーロッパ楽壇の頂点に立つ人物であり、またベートーヴェン、シューベルト、リストらを育てた名教育家でもあった。 死後はその名と作品を忘れられたが、戯曲『アマデウス』(1979年)およびその映画版(1984年)の主人公として取り上げられたため、知名度が上昇。2003年に大メゾソプラノ歌手チェチーリア・バルトリがアルバムを出すなど、21世紀に入ってからは音楽家としての再評価の動きもあり、2009年からは生地レニャーゴでサリエリ・オペラ音楽祭〔Salieri Opera Festival 〕が毎年開催されている。 == 生涯 == 幼少のころからチェンバロ、声楽、ヴァイオリンの音楽教育を受け、類稀な才能を顕わした。両親が死去した後、北イタリアのパドヴァ、ヴェネツィアに住み、1766年にとともにウィーンの宮廷へと招かれた。以後、ウィーンに留まり、皇帝ヨーゼフ2世によって1774年に宮廷作曲家、1788年には宮廷楽長に任命され、亡くなる直前の1824年までその地位にあった。1817年にはウィーン楽友協会音楽院の指導者に就任した。また、ニューイヤーコンサートで有名なウィーン楽友協会の黄金ホールの設計、特に空間性、音響効果の設計にも携わっている。 彼はウィーンで作曲家として、特にイタリアオペラ、室内楽それと宗教音楽において高い名声を博した。彼の43曲のオペラのうち、もっとも成功したのはパリのオペラ座で初演された「ダナオスの娘たち(''Danaides'')」(1784年)と「タラール(''Tarare'')」(1787年)だった。1778年、ミラノのスカラ座の開場を飾ったのも、彼の「見出されたエウローパ」である。 サリエリは高い社会的地位を獲得し、しばしばハイドンなどの著名な作曲家との交際があった。教育者としての評価も高く、彼の薫陶を受けた有名な生徒としてベートーヴェン、シューベルト、リスト、ツェルニー、フンメル、マイアベーア、更にはモーツァルトの遺作のレクイエムを完成させたジュスマイヤー、モーツァルトの息子フランツ・クサーヴァーが彼の指導の恩恵を受けた。また、ベートーヴェンの『ウェリントンの勝利』初演に参加し、砲手や太鼓奏者のための副指揮者を担当していた。 サリエリに関する事柄で最も有名なのはモーツァルトと対立したことであり、1820年代のウィーンでは、サリエリがモーツァルトから盗作したり、毒殺しようとしたと非難するスキャンダルが起こった。ただし、これらは何ひとつ立証されてはいない。これはロッシーニを担ぐイタリア派とドイツ民族のドイツ音楽を標榜するドイツ派の対立の中で、宮廷楽長を長年独占して来たイタリア人サリエリが標的にされたといわれている(また、モーツァルト自身も「ウィーンで自分が高い地位に付けないのはサリエリが邪魔をする為」と主張していたという)。 但し、映画『アマデウス』などで描かれているような、彼が精神病院で余生を閉じたり、モーツァルトを死に追いやったと告白する場面は当時のスキャンダラスな風聞を元にしており事実とは大きく異なる。実際に彼は死の直前まで入院していたが、それは痛風と視力低下が元で起こった怪我の治療の為である。ただ、身に覚えの無い噂に心を痛めていたらしく、弟子のモシェレスにわざわざ自らの無実を訴えた所、かえってこれがモシェレスの疑念を呼び、彼の日記に「モーツァルトを毒殺したに違いない」と書かれてしまう結果になる。 彼は以前ロッシーニからも「モーツァルトを本当に毒殺したのか?」と面と向かって尋ねられた事があり、その時は毅然とした態度で否定する余裕があったが、病苦と怪我で気が弱くなっていたのは事実である。 実際の彼は経済的に成功した為か慈善活動にも熱心で、弟子からは一切謝礼を取らず、才能のある弟子や生活に困る弟子には支援を惜しまなかった。職を失って困窮する音楽家やその遺族の為に、互助会を組織し、慈善コンサートを毎年開催し、有力諸侯に困窮者への支援の手紙を書くなどしている。またイタリア出身の為、最後まで流暢なドイツ語が話せなかった。 また、モーツァルトのミサ曲をたびたび演奏し、『魔笛』を高く評価するなど、モーツァルトの才能を認めて親交を持っていたことが明らかとなっている。一方、モーツァルトは1773年(17歳)にピアノのための『「ヴェネツィアの市」による6つの変奏曲 K.180』を作曲しており、ウィーンでの就職を狙って作られたと考えられている。なお、1791年のモーツァルトの死に際してサリエリは葬儀に参列し、1793年1月2日、スヴィーテン男爵の依頼によりサリエリはモーツァルトの遺作『レクイエム』を初演した。74歳で死去。墓所はウイーン中央墓地、0ブロック(第二門を入って左側塀沿い)にある。 近年、まだ一部の動きではあるが、サリエリの再評価をする向きがあり、チェチーリア・バルトリがサリエリのアルバムを出し、またオペラもDVD化されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントニオ・サリエリ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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