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ウィリアム・サローヤン(William Saroyan、1908年8月31日 - 1981年5月18日)はアメリカの小説家・劇作家。アメリカの庶民を明るく書いた。サロイヤンとも表記する。 ==生涯== トルコ東部から1905年にアメリカへ移住したアルメニア人の末子として、カリフォルニア州のフレズノに生まれた。一歳半のとき父を喪い、4人の兄姉とオークランドの孤児院に入り、5年後、女工の母に引き取られた。学業半ばの12歳のときから、電報配達や新聞売り子などで稼いだ。作家を志し、1930年ころから、雑誌や新聞に書いた。 1934年(26歳)、ストーリー誌(Story)に載せた『空中ブランコに乗った若者』によって知られ、以降、庶民の哀歓を、平易な文体で、明るくほろ苦く綴り続けた。映画の台本も書いた。 1938年30歳のときの『わが心高原に』と、翌年の『君が人生の時』がブロードウェイであたり、1940年、後者に演劇部門のピューリッツァー賞が与えられたが、辞退した。同年出版の『我が名はアラム』は各国語に翻訳され、日本でも、真珠湾攻撃直前の1941年11月に、清水俊二の訳書が六興出版から刊行された。 1943年(35歳)、シナリオを小説にした『ヒューマン・コメディ』を2月に出版し、翌月映画が公開され、1944年、それによりアカデミー最優秀脚本賞を受けた。これは『町の人気者』 の題名で、1947年日本に公開された。 1943年、まだ19歳だった女優の(後に『ティファニーで朝食を』のモデルとしても知られるようになった)と結婚し、2児を得たが、彼の性格と生活態度が原因で、1949年離婚し、1951年復縁し、そして翌年離婚した。サローヤンはまさに作家の絶頂期にあったが、キャロルによると無類のギャンブル好きで、暴力も激しかった。子供たちは、母親が父親に投げられ首を絞められるところを見ていた〔Obituary Carol Matthau, The Guadian, 11 August 2003 〕。離婚後、子らはキャロルと暮らし、彼は、カリフォルニアの家やパリのアパートで独り暮らしした。 夏休みの子らをヨーロッパに連れることもあったが、しだいに疎隔した。庶民の哀歓を明るく綴り続けた作家は、必ずしも温かい夫、優しい父親でなかった。 息子のアラム(Aram Saroyan)(1943 - )は作家に、娘のリュシー(Lucy Saroyan)(1946 - 2003)は女優に、成長した。妻だったキャロルは、1959年ウォルター・マッソーと再婚した。 1981年、前立腺ガンで、フレズノに没し、遺骨はカリフォルニアとアルメニアとに埋葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・サローヤン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 William Saroyan 」があります。 スポンサード リンク
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