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サン・ペドロ・スーラ (San Pedro Sula) は、ホンジュラス北西部に位置する。コルテス県の県都である。人口は、約74万3000人(2012年)。ホンジュラス第2の人口を有する産業都市である。しかし、実質的には隣接するチョロマ市(約30万人、2012年)やヨロ(ジョロ)県エル・プログレッソ市(約21万人、2012年)などと一緒にスラ・バレー・メトロポリタン・ゾーンという都市圏(人口約160万人、2012年)を形成している〔桜井三枝子・中原篤史編集 『ホンジュラスを知るための60章』 エリアスタディーズ127 明石書店 2014年 36ページ〕。 平均気温は最高気温が31度、最低気温が22度と常夏の地である〔。 首都テグシガルパに代わり、ホンジュラス経済の中心となっている。 麻薬の経由地として機能しており、麻薬組織間の抗争によって殺人事件が多発している。世界でも最も治安が悪い場所であるとされる。 == 歴史 == 1536年〔1548年(桜井三枝子・中原篤史編集 『ホンジュラスを知るための60章』 エリアスタディーズ127 明石書店 2014年 36ページ)〕6月27日、ペドロ・デ・アルバラードによって「サン・ペドロ・デ・プエルト・カバージョス (Villa de San Pedro de Puerto Caballos)」として、現在のコルテス県チョローマ (Choloma) の近くで創設された。当時はスーラ盆地に約18の先住民の村があった。初期の様子では、沼沢地と深い熱帯雨林で農業や牧畜にはほとんど向く土地がなかった。都市名はその後いくつかの変遷を経て、18世紀にはサン・ペドロ・スーラとなった。「スーラ」はナコ村の西にあった金鉱であるスーラ鉱山 (Minas de Sula) を由来とする。 このスーラ鉱山(金鉱)の金のため、最初の数年間はサンペドロに植民地政府の造幣所が置かれた。スペイン王室はここで精練された金の価値の1/5を徴収していた。造幣所はその後すぐグラシアス (Gracias) に移設され、最終的には1550年代にコマヤグアに移設された。 フランス系、イギリス系、オランダ系の海賊がたびたび町を襲撃し略奪することがあったため、スペイン人は町を現在の場所であるチャメレコン川沿いに移した。この地は不人気で、しばらく植民者が増えることはなかった。 それでも町の人口は1590年の800人から、1890年代には1万人に増加したが、その成長は19世紀に入ってからであった。1870年代から1880年代に開始されたバナナの輸出産業で、アメリカ合衆国の貿易商・実業家サミュエル・ザムライ (Samuel Zemurray) のクヤメル・フルーツ社 (Cuyamel Fruit Company) との関係が出来、さらに1869年から1874年の間にプエルトコルテスからの鉄道も敷設されたことで町の繁栄が始まった。ザムライは地元の有力者との関係を築き、子会社に投資を受けながら政治力を発揮し税金をほとんど納めず、クヤメル・フルーツ社を成長させた〔Dario Euraque, ''Reinterperting the Banana Republic: Region and State in Honduras, 1870–1972'' (Chapel Hill, North Carolina: University of North Carolina Press, 1996) pp. 25–27.〕。結果として町は近隣の大平原に広がるバナナ農園の開発の中心として、人口が急増した。1902年には正式に市制施行された。 1920年代中盤には、この地域のバナナプランテーションのブームでより人口はさらに1万人から10万人に増加した。現在では都市圏全体では100万人を超え、さらに拡大を続けている。サン・ペドロ・スーラからバナナ農園、カリブ海のテラとプエルト・コルテスの港を結ぶ鉄道や、地元のパレスチナ系実業家の投資により、サンペドロ・スーラは産業都市に発展した。 21世紀に入ると急速に治安が悪化した。メキシコのシンクタンクが発表している主要都市別の殺人事件発生率では、2011年、2012年と2年連続で世界最悪とされており、2012年には10万人あたり169人が被害に遭っているとされている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サン・ペドロ・スーラ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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