|
サン=ナゼール強襲(St Nazaire Raid)またはチャリオット作戦(Operation Chariot)は、第二次世界大戦中にイギリス軍が展開した特殊作戦である。1942年3月28日、イギリス軍はドイツ占領下のフランスにて厳重に警備されていたサン=ナゼール港の乾ドック、通称「」を海上から強襲した。この作戦はによる援護の元、イギリス海軍およびブリティッシュ・コマンドスによって遂行された。ノルマンディ・ドックは大西洋沿岸において戦艦「ティルピッツ」などドイツ海軍の大型艦艇を修理しうる唯一の施設であり、これを破壊することで修理を必要としている多くのドイツ海軍艦艇にドイツ本土への移動を強いる事が期待された。 小型舟艇18隻を率いた旧式駆逐艦「キャンベルタウン」は英仏海峡を超えてフランス大西洋沿岸に進出し、ノルマンディ・ドックのゲートに衝角突撃を行なった。さらに「キャンベルタウン」の船首には鋼鉄とコンクリートの容器に格納された遅発式爆薬が満載されており、その爆発によってドックはほぼ完全に破壊された。これによりノルマンディ・ドックは機能を失い、操業を再開したのは戦後10年経ってからだったという。また、地上施設破壊の任務を帯びたコマンドスも上陸している。ところがドイツ軍による激しい抵抗の中で、コマンドスを英国に送り返す事を目的に集結していた小型舟艇のほとんどが沈没、炎上などにより輸送能力を失った。取り残されたコマンドスは陸路での脱出を試みたものの、サン=ナゼール市街にて包囲され、多くが戦死ないし降伏することになる。 投入された英軍将兵622名の内、169名が戦死、215名が捕虜となり、英国への帰還を果たしたのは228名であった。一方、ドイツ軍ではキャンベルタウン自爆の際に360名以上が死亡している。イギリス政府では、この襲撃に参加した将兵のうち89名に何らかの勲章を授与しており、内5名はヴィクトリア十字章を受章している。またサン=ナゼール強襲への参加を称えるべく、コマンドスに対してサン=ナゼールの名を冠した戦闘名誉章(Battle honours)が授与された。 == 背景 == サン=ナゼールはロワール川流域の北岸に位置する。古くから港湾都市として栄え、1942年の段階で50,000人の住民が暮らしていた。また英国から最も近いフランス港の1つでもあり、最寄りの英国港からは400kmの距離にあった。サン=ナゼール港はアバン・ポール(Avant Port)と称される外港を備えており、これは大西洋に向けて付き出した2つの埠頭によって構成されている。またアバン・ポールは水を制御する2つの水門を挟んでバサン・ド・サン=ナゼール(Bassin de St Nazaire)なる内港に接続されていた。こうした構造は水位を調整し港湾内に潮流による影響を与えない事を目的としていた。バサン・ド・サン=ナゼールを超えた先にはバサン・ド・パンウエット(Bassin de Penhoët)というもう1つの内港があり、ここには最大10,000トンの艦船を収容する事が可能であった。このバサン・ド・パンウエットに接続されているは1932年に遠洋定期船「ノルマンディ」を収容する為、当時世界最大の乾ドックとして建設された〔。ノルマンディ・ドックの北西にはバサン・ド・サン=ナゼールへの旧入口があった。また、アバン・ポール南埠頭と旧入口の中間には、ロワール川に向けて突き出るヴュー・モール(vieux môle)と通称される古い突堤があった〔Mountbatten, p. 71〕。 1941年5月24日のデンマーク海峡海戦では、ドイツ海軍の戦艦「ビスマルク」および重巡洋艦「プリンツ・オイゲン」、そしてイギリス海軍の戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」および巡洋戦艦「フッド」が衝突した。この戦いにより「フッド」は撃沈され、「プリンス・オブ・ウェールズ」も長期の修理を余儀なくされた。一方、「ビスマルク」もまた無視できないレベルの損傷を受けており、当時の枢軸軍勢力下の軍港のうち唯一「ビスマルク」を収容しうる乾ドックがあったサン=ナゼールの軍港への単独航行を命じられた。しかし結局、ビスマルクはフランスへ到達することなく英海軍による迫撃に晒され、沈没した〔Ford, p. 7〕。 1941年末、はドック奇襲に関する最初の提案を行なった〔Hinsley et al., p. 192〕。1942年1月、独戦艦「ティルピッツ」の出撃が確認された時、英海軍および英空軍は既にティルピッツ攻撃の計画を策定していた。の作戦室では、「ティルピッツ」が海上封鎖を逃れて大西洋に到達した後のシナリオを想定していた〔Ford, p. 10〕。そして仮に「ティルピッツ」が損傷した場合、同型艦であったビスマルクと同様にサン=ナゼールのみがこれを収容・修理しうると判断し、さらにサン=ナゼールでの収容が不可能となった場合、ドイツ海軍が大西洋に「ティルピッツ」を派遣する可能性は非常に低くなるだろうと結論づけたのである〔。 合同作戦司令部では、ドックの破壊を計画するに当たって、多くの作戦上のオプションに関する調査・検討を行なった。この作戦の立案段階では、英国政府はまだ非戦闘員の被害を極力避けようとしていた。空軍が提案した爆撃は、非戦闘員に被害を与える事なくドックの機能を奪うことが不可能と見なされた為に除外された〔Ford, p. 13〕。特殊作戦執行部(SOE)は、エージェントによるドックのゲート破壊を提案した。しかしゲートを破壊するほどの爆薬を運び込むには、現在潜入活動中のエージェントだけでは到底足りないと判断された〔Ford, p. 15〕。また、海軍でも有効な作戦の立案は難航していた。サン=ナゼールはロワール川の河口からおよそ8kmの地点に位置しており、いずれの艦船を用いるとしてもこの距離を敵に発見されず、また攻撃を受けずに航行する事は不可能に近いと考えられていたのである〔。 こうした各方面からの検討の末、コマンドスの投入が提案された。1942年3月には大西洋が大潮で水位が大きく上昇することが予想されており、その中であれば軽船舶が砂州上を航行し、また海上からドックに接近する事が可能とされた。ただし通常のを用いるにはあまりにも浅すぎる為、特別に軽量化された駆逐艦を投入する必要があるとされた〔Ford, p. 14〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サン=ナゼール強襲」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|