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サン=ミシェル=ド=モーリエンヌ鉄道事故 : ウィキペディア日本語版 | サン=ミシェル=ド=モーリエンヌ鉄道事故[さんみしぇるどもーりえんぬてつどうじこ]
サン=ミシェル=ド=モーリエンヌ鉄道事故()は、1917年12月12日にフランス・サヴォワ県ので発生した鉄道事故である。フレジュス鉄道トンネル(モン・スニトンネル)からシャンベリ方面へ向かっていたフランス陸軍の軍用列車が下り坂を暴走したのち脱線、炎上し、427名以上(諸説あり。詳しくは後述)が死亡する惨事となった。 これは死亡者数においてフランス史上最大の鉄道事故であり、確実な記録のあるものの中では世界史上でも最大とされる。しかし第一次世界大戦中の軍用列車の事故ということもあり、当時公開された情報は限られていた。このため現在でも事故の詳細については不明な点もある。 == 背景 ==
事故のあった路線は1871年に開業した、フランスとイタリアを結ぶフレジュス鉄道トンネル(フランスでの通称モン・スニトンネル)のフランス側の取付線である。トンネルのフランス側出口に位置する駅(標高1057m)からラ・プラーズ(La Praz)駅(標高957m、モダーヌから5.8km)、サン=ミシェル=ド=モーリエンヌ駅(標高711m、モダーヌから15.6km)を経てサン=ジャン=ド=モーリエンヌ駅(標高536m、モダーヌから27.9km)までは最大34.3パーミルの下り坂が続く急勾配区間である。事故当時はフランスの大手私鉄の一つである(略称PLM)の路線であった。またモダーヌから南側はイタリア国鉄が運営していた。当時すでに複線化されていたものの非電化で、列車は蒸気機関車が牽引していた。 第一次世界大戦が勃発し1915年にイタリアが参戦すると、フレジュストンネルはイギリス、フランスとイタリアを結ぶ重要な補給路となった。1917年10月、イタリア軍はカポレットの戦いに大敗し、戦線を大きく後退させた。この事態にフランスとイギリスはフレジュストンネルなどを利用してイタリアに援軍を派遣した。11月半ばにはピアーヴェ川の防衛線の構築に成功したことから、フランス軍は12月1日から年末休暇を兼ねて部隊の一部を帰国させることにした〔〕。
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