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サーマン・マンソン(Thurman Lee Munson , 1947年6月7日 - 1979年8月2日)はアメリカ・メジャーリーグで活躍した野球選手。捕手。右投右打。アメリカ合衆国オハイオ州出身。1970年代にニューヨーク・ヤンキースで活躍した捕手。主将を務めたが、現役選手だった1979年に飛行機事故で亡くなった。 == 人物・来歴 == ケント州立大学では、後のサイ・ヤング賞投手スティーブ・ストーンとバッテリーを組む。1968年のドラフト会議でニューヨーク・ヤンキースから1巡目に指名され、入団。翌1969年に早くもメジャーに昇格し、8月9日に初出場を果たす。 1970年に本格デビューし、132試合に出場して打率.302の活躍でア・リーグ新人王に選ばれた。 当時のヤンキースはかつての黄金時代の看板選手だったミッキー・マントルらが相次いで引退、またチームも低迷期に入っていたため、看板選手が不在だったヤンキースにおいてマンソンはマントルらの後継者として期待されるようになる。1971年には初のオールスター出場を果たし、1973年には初のゴールドグラブ賞を受賞し、この後3年連続で受賞。オールスターは死の前年まで6年連続で出場を果たした。 1976年には打率.302、17本塁打、105打点、14盗塁の活躍でア・リーグMVPに選ばれる。この年チームは久々にワールドシリーズに進出。マンソン自身は打率.529を記録したが、チームは「ビッグレッドマシン」と言われ、当時全盛を誇ったシンシナティ・レッズに敗れた。 持ち前のリーダーシップで、ヤンキースではルー・ゲーリッグ以来のキャプテンに任命され、ジョージ・スタインブレナーがフリーエージェント(FA)で買い集めてきた「ブロンクス動物園」とも言われた個性豊かなチームを統率した。しかしながら、マンソン自身がマスコミ嫌いで、ロッカールームに取材しに来た記者に対して「失せろ」と言い放つほどであったため、FA移籍してきた主砲でマスコミ受けが良かったレジー・ジャクソンとはついに最後まで不仲であった。 加えて、当時の監督は武闘派としてならしていたビリー・マーチンであったが、キャプテンの立場からマーチンとはあわや殴り合い寸前の口論を演じたこともあった。しかし、マーチンとの関係はむしろ良好で、その気概をマーチンも買っていたともいわれる。 チームは1977年・1978年にいずれもロサンゼルス・ドジャースを破り、2年連続ワールドチャンピオンに輝いた。この3年間、マンソンはリーグチャンピオンシップシリーズでは通算.339、ワールドシリーズでは.373の高打率をマーク。1978年の最終戦では、9回2死からドジャースのロン・セイのフライ(ウイニング・ボール)をキャッチ。 翌1979年も、7年連続のオールスター出場こそ逃したものも、開幕から97試合に出場して打率.288と活躍していた。同年8月2日にマンソンはオフのためオハイオ州の自宅に帰った。そこでマンソンは所有する自家用セスナ機を操縦していたが、飛行中に木に接触し、機体は墜落、炎上した。同乗していた2人は救助されたが、機体から出られなかったマンソンは死亡した。32歳没。当初は墜落炎上による焼死と思われたが、のちの検死で、炎上した際に起きた発煙をマンソンが吸い込んだために、その時点で死亡したという。 その夜のヤンキー・スタジアムではボルチモア・オリオールズとの試合前に、先発メンバー全員がキャッチャーボックスの前に立って、帰らぬキャプテンに敬意を表する。 8月6日にマンソンが住んでいたオハイオ州カントンで行われた葬儀には、ヤンキースの全選手が参列。マンソンの親友、ルー・ピネラ(のち監督)とボビー・マーサーが弔辞を読んだ。その夜の試合で、マーサーは7回に3ラン本塁打。3-4のビハインドで迎えた9回裏には逆転のサヨナラ2点タイムリー安打を放ち、一人で全5得点をたたき出し、マンソンに捧げた。しかし、同年のヤンキースはこれで終戦ムードとなってしまい、後年、ピネラはこの1979年シーズンのヤンキースを「マンソンの死で終わってしまった」と述懐している。 その死とともに、ヤンキースはマンソンの背番号「15」を永久欠番に指定した。死後もヤンキース・クラブハウスにてマンソンのロッカーは当時のまま保管され、現在は新・ヤンキースタジアム内のヤンキースミュージアムにて保管されている。 もし現役があと5、6年ほど長ければ殿堂入りは確実だったであろうと言われており、現在もベテランズ委員会の殿堂入り選考にマンソンの名前が挙がるほどである。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サーマン・マンソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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