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アル=サーリフ・ハーッジー(Al-Salih Salah Zein al-Din Hajji II、ハーッジー2世)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)のスルターン(在位:1381年 - 1382年、1389年 - 1390年)。第26代スルターン・アシュラフ・シャーバーンの子〔三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史 1 アラブ』収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)、付録93頁〕〔Williams, p.16-17 〕。第27代スルターン・マンスール・アリーの弟にあたる。 1381年にマンスール・アリーが没した後、有力者である将軍バルクークが登位する噂が広まるが、他の将軍たちはブルジー・マムルーク(出身のマムルーク)であるバルクークの即位に反対していた〔大原『エジプト マムルーク王朝』、78頁〕。バルクークはバフリー・マムルーク(アイユーブ朝のスルターン・サーリフが創始したバフリーヤ軍団の出身者)の勢力が衰えるまで即位を延期するべきだと考え、マンスール・アリーの弟であるハーッジー2世を擁立した〔大原『エジプト マムルーク王朝』、78,80頁〕。ハーッジー2世の即位後、摂政となったバルクークが政務と軍事の全権を掌握した〔大原『エジプト マムルーク王朝』、81頁〕。 バフリー・マムルークの有力者たちが相次いで没した後にバルクークは即位を決意し、1382年11月にハーッジー2世は廃位される〔大原『エジプト マムルーク王朝』、78,81頁〕。 1389年にバルクークが反乱によって失脚した後、バルクークの政敵によってハーッジー2世が擁立され、一時的に復位する。1390年のダマスカス近郊の戦闘でハーッジー2世はバルクーク軍の捕虜となり、バルクークによって再び廃位された〔大原『エジプト マムルーク王朝』、87頁〕。 バルクークの復位により、カラーウーン家によるスルターン位の世襲は終わりを迎え、新たにブルジー・マムルーク朝が成立した〔三浦徹「東アラブ世界の変容」『西アジア史 1 アラブ』収録(佐藤次高編, 新版世界各国史, 山川出版社, 2002年3月)、323頁〕。 ハーッジー2世は廃位後もカイロに住み続けることを許されたが、後に毒殺される〔大原『エジプト マムルーク王朝』、88頁〕。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「サーリフ・ハーッジー」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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