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サー・アーサー・イグナチウス・コナン・ドイル〔スタシャワー(2010) p.40〕(, , 〔リーダーズ英和辞典第3版〕 発音例1 発音例2 , 1859年5月22日 – 1930年7月7日)は、イギリスの作家、医師、政治活動家。 推理小説・歴史小説・SF小説などを多数著した。とりわけ『シャーロック・ホームズ』シリーズの著者として知られ、現代のミステリ作品の基礎を築いた。SF分野では『失われた世界』、『』などチャレンジャー教授が活躍する作品群を、また歴史小説でも『』やシリーズなどを著している。 1902年にナイトに叙せられ、「サー」の称号を得た。 == 概要 == 1859年5月22日にスコットランド・エディンバラに測量技師補チャールズ・ドイルの息子として生まれた。アイルランド系・カトリックの家庭だった。大伯父から「コナン」の姓をもらい、「コナン・ドイル」の複合姓となる。祖父や伯父3人は成功者だったが、父は出世せず、後にはアルコール中毒者となって精神病院に送られたため、幼少期・青年期の生活は苦しかった(''→出生と出自'')。 伯父たちの支援でイエズス会系の学校を出た後、1876年にエジンバラ大学医学部に進学し、1881年に学位を得て卒業した(''→学生時代'')。大学卒業後、医師として診察所を開業したが、大きな成功は得られなかった(''→医師として'')。 患者を待つ暇な時間を利用し、副業で小説を執筆して雑誌社に投稿するようになり、1884年にはシャーロック・ホームズシリーズの第一作である長編小説『緋色の研究』を発表している(''→副業としての初期の執筆活動'')。1889年に出版された歴史小説『』、1890年に出版されたホームズシリーズ第2作『四つの署名』、1891年に出版された歴史小説『』などで小説家として成功した(''→小説家としての成功'')。 1891年にはこれまでの診察所を閉めて、無資格の眼科医を始めたものの、患者は全く来なかった。これをきっかけに執筆業一本に絞ることになった(''→眼科への転身失敗と執筆業一本化'')。 1891年から『ストランド・マガジン』で読み切りのホームズ短編小説の連載を始め、爆発的な人気を獲得した(''→シャーロック・ホームズの大ヒット'')。しかし彼は歴史小説を自分の本分と考えていたのでホームズシリーズが著名になり過ぎると、ホームズを倦厭するようになり、1893年発表の『最後の事件』においてホームズを死亡させた。その後、ナポレオン戦争時代を舞台にしたシリーズの連載を開始した(''→歴史小説を志向'')。 1900年にボーア戦争が勃発すると医療奉仕団に医師の一人として参加して戦地に赴いた(''→戦地医療奉仕活動'')。同年10月に行われたに与党自由統一党の候補としてから出馬し、戦争支持を訴えたが、落選した(''→総選挙に出馬するも落選'')。ボーア戦争がゲリラ戦争と化して焦土作戦や強制収容所などイギリス軍の残虐行為への国内外の批判が高まっていく中、1902年には『南アフリカ戦争 原因と行い』を発表して、イギリス軍の汚名を雪ぐことに尽力し、その功績で国王エドワード7世よりナイトに叙され、「サー」の称号を得た(''→英軍擁護運動'')。 1901年には久々のホームズ作品である長編小説『バスカヴィル家の犬』を発表した。この作品の事件の発生年は『最後の事件』より以前に設定され、死亡したと設定されたホームズの復活ではなかったが、1903年から再開されたホームズ短編連載ではホームズは生きていたと設定された(''→ホームズの復活'')。 彼は「自分にはホームズのような推理力はない」と語っていたが、「事件」や「オスカー・スレイター事件」といった事件で、警察の杜撰な捜査を暴いて、犯人とされた人物の冤罪を晴らすことに尽力した(''→冤罪事件への取り組み'')。 1912年4月のタイタニック号沈没事件をめぐっては乗客・船員の英雄譚の実否をめぐって否定的なジョージ・バーナード・ショウと論争した(''→タイタニック沈没事件をめぐる論争'')。 1912年にはチャレンジャー教授シリーズの第1作である『失われた世界』、その翌年には第2作『』を発表し、SF小説にも進出した(''→チャレンジャー教授の創造と大戦前の動向'')。 1914年に第一次世界大戦が勃発すると政府や軍部の戦争遂行を全力で支援した。戦意高揚のための執筆活動や、各前線をまわって士気を鼓舞する演説を行うことに努めた(''→第一次世界大戦をめぐって'')。 一次大戦前から心霊主義に関心を持っていたが、戦中の相次ぐ身内の戦死・病死により、戦後には心霊主義への傾斜を一層強めた。晩年の活動はほぼすべて心霊主義活動に捧げられた。1925年にはチャレンジャー教授が心霊主義に目覚める『』を発表した(''→心霊主義、心霊主義活動の本格化'')。 1930年7月7日に死去した(''→死去'')。 様々な分野の執筆を行ったが、推理小説シャーロック・ホームズシリーズの名声が最も高く、この作品を通じて後世の推理物の様々な原型を築いた(''→評価'')。政治思想面では、中世騎士道を基礎として、国家主義、帝国主義、反共主義、婦人参政権反対、離婚法改正賛成などの立場をとった(''→政治思想'')。クリケットをはじめとして様々なスポーツに打ち込むスポーツマンでもあった(''→スポーツマン'')。先妻はルイーズ、後妻はジーン。先妻との間には1男1女、後妻との間には2男1女を儲けた(''→家族'')。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アーサー・コナン・ドイル」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Arthur Conan Doyle 」があります。 スポンサード リンク
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