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ザクセン君主一覧は、中世から近代にかけてドイツのザクセン公国及びザクセン王国の君主の一覧である。 == 略史 == 最初のザクセン公は、カール大帝がザクセンを征服した際に、降伏したザクセン人のリーダーであるウィドゥキントに授けたものだとされる。ウィドゥキントの子孫リウドルフはリウドルフィング家の始祖となり、その版図と経済力を背景にリウドルフィング家はフランク王国内でも重きをなした。ハインリヒ1世は919年にドイツ王となり、ザクセン朝を開いた。続くオットー2世は、962年に神聖ローマ皇帝に即位し、数々の業績から大帝と称された。オットー2世はザクセンから離れる事が多かったので、ヘルマン・ビルングが留守の間の内政を預かっていた。オットー2世はヘルマンをザクセン辺境伯とし、その後さらにザクセン副公とした。ヘルマンの息子ベルンハルト1世の代に、正式にザクセン公として承認された。 1106年、ビルング家最後の当主マグヌスが亡くなり、後継者が存在しなかった為、ズップリンブルク家のロタール1世がザクセン公となった。その後、ヴェルフ家とアスカーニエン家が交互にザクセン公となり、一時はヴェルフ家のハインリヒ3世がバイエルン公も兼ねて帝国の有力諸侯にのし上がったが、1180年にフリードリヒ1世に帝国追放を受けて所領を没収され、アスカーニエン家のベルンハルト3世がザクセン公になった。1260年、アルブレヒト1世が亡くなると、ザクセンはザクセン=ヴィッテンベルクとザクセン=ラウエンブルクに分割された。1356年、カール4世が金印勅書を発布し、ザクセン=ヴィッテンベルク公が選帝侯の資格を得た。以降はザクセン選帝侯と呼ばれる。 1422年、アスカーニエン家の最後の当主アルブレヒト3世が亡くなると、マイセン及びテューリンゲンの辺境伯、ヴェッティン家のフリードリヒ1世がザクセン選帝侯の位を継承した。1464年に子のフリードリヒ2世が死亡すると、遺領は2人の息子に分割相続された。長男のエルンストが選帝侯となり、北マイセン、南テューリンゲン、ヴィッテンブルクを継承した。次男のアルブレヒトは南マイセン、北テューリンゲンを継承し、新たに公爵位も与えられた。ヴィッティン家はエルンスト系とアルブレヒト系に分かれたのである。 1547年、ミュールベルクの戦いで勝利したカール5世は、自身に敵対したヨハン・フリードリヒ(エルンスト系)から選帝侯の資格を剥奪し、味方したモーリッツ(アルブレヒト系)に褒賞としてこれを与えた。以降、選帝侯の資格はアルブレヒト系が継承した。 1697年にはフリードリヒ・アウグスト1世がポーランド王に迎えられ、1763年まで同君連合となったが、波乱が絶えなかった。1700年に開始された大北方戦争に巻き込まれて一時その地位を失い、1733年にはポーランド継承戦争が起こされた。ポーランド王国における王権は無きに等しく、大北方戦争以後のポーランドはほぼ列強の傀儡国家あるいは緩衝国と化した。 1806年、神聖ローマ帝国の解体に伴い、ザクセン王国となった。時のザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト3世はザクセン王フリードリヒ・アウグスト1世となった。1918年のドイツ革命によってドイツ帝国は消滅し、ザクセン王国もまた消滅した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ザクセン君主一覧」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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