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(アントニオ・)ザッカーラ・ダ・テーラモ(Antonio Zaccara da Teramo, またはザカーラ Zacara, Zacharaとも)は、中世イタリアの作曲家・声楽家・教皇庁事務官。1350年代に生まれ、1413年(一説によると1416年)5月19日に他界した。トレチェント音楽からルネサンス音楽への過渡期の作曲家であり、1400年ごろに最も活躍したイタリア人作曲家の一人である。しばしばアルス・スブティリオルの作曲家に数えられる。 == 生涯 == おそらくはアブルッツォ州北部のテーラモ出身。1390年にローマ入りするまでの略歴については何も分かっていない。ローマでは、サッシアの聖霊捨子養育院(オスペダーレ・ディ・サント・スピリト)で教師になった。着任した頃すでに若くなかったという文書が残っているが、厳密な年齢は示されていない。 翌1391年に、ローマ教皇ボニファティウス9世の秘書官となる。採用通知書が現存しており、そこには彼が既婚者の平信徒であり、教皇庁歌手であると記されている。この職務に教皇グレゴリウス12世の時代まで勤続した。当時は教会大分裂(シスマ)の混迷の時期であり、現存する書簡や、作品に隠された、おそらく政治的な破壊活動への言及からすると、ザッカーラ・ダ・テーラモは当時の政治謀略に関与していたようである。作品中ではたびたび「堕天使 」と呼ばれて言及されている。おそらく1408年には、教皇グレゴリウス12世のもとでの勤務を止めたらしい。バッラータ《 ''Dime Fortuna poy che tu parlasti''》が、その異動の証拠として引き合いに出されてきた。1412年と1413年には、ボローニャにおける対立教皇ヨハネス23世の礼拝堂歌手として記録されている。1416年の文書には、すでに故人であると言及されている。亡くなる頃には、ローマとテーラモに資産を残していた。 豪華装飾写本『スクアルチャルーピ写本』には、ザッカーラ・ダ・テーラモについての説明が含まれている。小男で、手足の指すべてを合わせた本数が10本しかなかったという。その詳細は、肖像画では明らかにされていないが、18世紀のアブルッツィ州の死亡者名簿において言及されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「アントニオ・ザッカーラ・ダ・テーラモ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zacara da Teramo 」があります。 スポンサード リンク
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