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ザライスク(, Zaraysk)は、ロシア連邦のモスクワ州に属する古都。モスクワの南東162km、オカ川の右支流・オショートル川沿いにある。人口は、2002年国勢調査で25,093人。 == 歴史 == 2008年の発掘では象牙でできた女性像や骨器などが発見され、旧石器時代から人の居住があったと考えられる〔http://www.zeit.de/online/2008/49/elfenbeinfiguren-entdeckt〕。 ザライスクはモスクワ州でも最古の町のひとつである。中世にはリャザン公国に属し、13世紀にはクラスノエと呼ばれていたが、1237年にはモンゴル帝国に襲われ荒廃している。14世紀から15世紀にかけて再興した際にはノヴォゴロドク=ナ=オショートルと呼ばれていた。 古いロシア語では川の高い岸辺をザラと呼んでおり、街の名はオショートル川の岸辺にできたことから来ている。1528年からはニコラ・ザラツキーの町と呼ばれ、17世紀初頭になってザライスクという名に落ち着いた。 モスクワ国家(ロシア・ツァーリ国)の時代、モスクワをクリミアやカザンのタタール人から守るために、要塞、樹木、柵、溝などで要塞線を築き南からの襲撃を防ごうとした。この要塞線は逆茂木線(Great Abatis Border)と呼ばれるが、ザライスクはこれを構成する要塞の一つであった。1528年から1531年にかけて、それまでの木造に代えて石造りの壁や塔で囲まれたクレムリ(クレムリン、城塞)が築かれた。1533年、1541年、1570年とタタール人はザライスクを攻略したが、石のクレムリを落とすことはできなかった。17世紀初頭の動乱時代、ポーランドの侵入の際にザライスクは偽ドミトリー2世の軍に占領され、また一時的にポーランドの傭兵部隊リソフシツィにより陥落している。 17世紀末以後、タタールやポーランドの脅威は去り、ザライスクは国境の要塞としての重要性を喪失した。一方で、モスクワとアストラハンを結ぶ街道の途上にあることから商人らが住んだ。18世紀には木造やレンガ造りの家々が立ち並び、1778年には市の地位を得て1796年にリャザン県の一部になった。1929年にモスクワ州に編入される前はザライスクはリャザンを中心とする県や州の一部であり、建築様式や方言もモスクワよりリャザンに近い。 19世紀までは農産物の交易で栄えたが、1847年に建設された新しい街道も1864年に開通したモスクワ・リャザン間の鉄道もザライスクを通らなかったため、市場は次第に衰えた。19世紀末には代わって靴や繊維の工場が建った。1870年には鉄道の支線ができたが、この路線は20世紀に入って廃線となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ザライスク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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