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シュザンヌ・ヴァラドン : ウィキペディア日本語版
シュザンヌ・ヴァラドン

シュザンヌ・ヴァラドン(, 1865年9月23日 - 1938年4月7日)は、フランスモンマルトル画家スュザンヌ(スザンヌ)・ヴァラドンとも呼ばれる。画家になる前は、著名な画家のモデルでもあった。画家モーリス・ユトリロの母である。人物をほとんど描かなかったユトリロとは対照的に、ヴァラドンの作品の主題はほとんどが人物であり、高いデッサン力に支えられた太い簡潔な線は、対象の特徴を容赦なく捉え力強い。ヴァラドンはユトリロが画家として成功するまで、息子に絵画の才能があるとは思っておらず、また息子も母から絵画を学ぶことはなかったため、互いに影響を受けることなく、独自の画風を確立している。
==生涯==

ヴァラドンは、オート=ヴィエンヌ県ベッシーヌ=シュル=ガルタンプで貧しい洗濯女の私生児として生まれた。1870年に母マドレーヌとともにパリへ移り住み、10代の初めから様々な職に就いた。一時期、あこがれていたサーカスブランコ乗りになるが、ブランコから落ちて負傷しブランコに乗れなくなったため、10代後半で絵画モデルになる。
ルノワールの「ブージヴァルのダンス」、「都会のダンス」〔有地京子『オルセーはやまわり』(中央公論新社)によれば、この作品の連作「田舎のダンス」では長年の恋人アリーヌが嫉妬したために顔をヴァラドンからアリーヌに替えたという。この作品の制作中にモーリスを妊娠しているが、一番の有力候補がピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌとルノワールだという。〕(オルセー美術館蔵)、パリ大学大講堂にあるシャヴァンヌ作「聖なる森」、ロートレックの「二日酔い」は、ヴァラドンがモデルである。当世一流の画家たちの仕事に接することによって、彼女もまた画家を目指すようになった。
18歳の時、息子モーリスを生む。実父が誰かはわかっていないが、酒飲みのボァッシイという人物とされる。1886年頃からヴァラドンと同棲していたロートレックは彼女の正確で力強いデッサンを評価し、画家への道を開いた。その後、デッサンを多数購入し、彼女を庇護したエドガー・ドガのもとで油彩と版画を学ぶ。1893年、エリック・サティと交際したが半年で破局。1894年ドガのすすめでサロンにデッサンを出品、フランス国民美術協会(ソシエテ・ナショナル・デ・ボザール)女性初の会員になる。1896年、資産家のポール・ムージスと結婚。1909年、息子より3歳年下の画家志望の青年アンドレ・ユッテルを恋人にし、ムージスとは離婚。ユッテルをモデルにした「アダムとイブ」、「網を打つ人」(アンデパンダン展に出品)など彼女の代表作となる作品を次々に製作した。1914年ユッテルと正式に結婚。1920年サロン・ドートンヌの会員になる。1932年パリ最大のプティ・ジョルジュ画廊で大回顧展が開催され、フランスの首相エドワール・エリオがそのカタログに序文を寄せる。1937年、彼女の主要作品がフランス政府によって買い上げられ、後にパリ国立近代美術館に所蔵される。1938年、自宅で倒れているところを隣人に発見され、病院へ搬送中に脳充血で死去した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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