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シンガポール華僑粛清事件[しんがぽーるかきょうしゅくせいじけん] シンガポール華僑粛清事件(シンガポールかきょうしゅくせいじけん)とは、1942年2月から3月にかけて、日本軍の占領統治下にあったシンガポールで、日本軍(第25軍)が、中国系住民多数を掃討作戦により殺害した事件。1947年に戦犯裁判(イギリス軍シンガポール裁判)で裁かれた。〔この記事の主な出典は、東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 199-206頁、林(1998) 210-250頁、林(2005) 163頁、林(2007)および井上ほか(2010) 144-151,182-190頁。〕 == 背景 ==
1942年2月15日、イギリス軍が日本軍の第25軍〔軍司令官・山下奉文中将〕に降伏し、日本軍はシンガポールを占領した〔林(1998) 212頁〕。 同月21日に、第25軍司令部は、「抗日分子」や旧政府関係者の摘発・処刑のため、シンガポールの市街地を担当する昭南警備隊〔司令官・河村参郎少将〕、シンガポール島のその他の地域を担当する近衛師団〔師団長・西村琢磨中将〕、マラヤ半島のジョホール州を担当する第18師団〔師団長・牟田口廉也中将〕およびジョホール州以外のマラヤ全域を担当する第5師団〔師団長・松井太久郎中将〕に粛清を命じ、シンガポールを含むマレー半島各地で掃討作戦が行われることとなった〔東京裁判ハンドブック(1989) 118頁、岩川(1995) 201頁、林(1998) 212,228,250頁〕。
日中間の戦争状態が拡大する中で、東南アジア各地では、華僑による抗日運動が盛んになっており、特にシンガポールの華僑は1938年10月の南僑総会の組織化に中心的な役割を果たし、1941年12月30日にはイギリス当局の要請もあって中華総商会を中心に星州華僑抗敵動員総会を発足させるなどしていたため、日本軍はシンガポールの華僑が抗日運動の中心になっていると見なしていた〔林(2007) 34-36頁〕。
抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シンガポール華僑粛清事件」の詳細全文を読む
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