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シンガポール植物園(英語:Singapore Botanic Garden、中国語:新加坡植物园、マレー語:Taman Botanik Singapura or Kebun Botani Singapura、日本占領下では昭南植物園)は、シンガポールにある植物園である。英語名のままボタニック・ガーデンと呼ぶこともある。敷地は63.7ヘクタールもの広さ(東京ドーム13個分)を擁し、ひと回りするには3時間以上かかると言われている。敷地は南北に細長い形をしており、北から順にブキット・ティマ・エリア、中央エリア、タングリン・エリアの3つに区分されている。開園時間は午前5時から夜中の12時までの年中無休で、国立洋ラン園(ナショナル・オーキッド・ガーデン)以外は入場料は必要ない。2015年の第39回世界遺産委員会で世界遺産リストに登録された。初のシンガポールの世界遺産である。 == 歴史 == 1822年、トマス・スタンフォード・ラッフルズや熱心な植物学者によって最初に"実験植物園"が設立された。この"植物園"の主な目的は、果物、野菜、香辛料、その他の素材などを産出する経済的に重要な栽培穀物の価値を見極めることであった。この最初の"実験植物園"は1829年に閉鎖される。 それから30年も経たない1859年に、植民地政府から与えられた32ヘクタールの土地をもとに農業園芸協会が、現在の"シンガポール植物園"を設立し、ローレンス・ニーベン(Laurence Niven)が監督者および景観デザイナーとして雇われた。現在の植物園の配置は、このニーベンがデザインしたものに大方基づいている。 太平洋戦争の日本による占領時(1942年から1945年)は、東北帝国大学の地理・地質学者である田中館秀三によって、シンガポール国立博物館と共に管理が引き継がれた。占領開始時、彼は植物園、博物館どちらでも略奪が起きないように保証し、どちらの施設も自然科学研究施設としての機能を維持し続けた。ホルタム元園長(Holttum), E.J.H.コーナー博士(Edred John Henry Corner)らは投獄される代わりに植物園に収容されて、園芸の仕事を続けるように指示された。また、植物園は"昭南植物園"と改名させられ、1942年後半には後任として京都帝国大学などで植物学を研究していた郡場寛が赴任し、戦争終結まで植物園園長および博物館館長を兼任した。 戦後、植物園の管理はイギリスに戻り、戦前の植物園園長であるヘンダーソン(Murray Ross Henderson)は、ホルタムから管理を受け継いで1949年から1954年まで園長を勤めた。1965年のマレーシア連邦からの独立後も植物園は、シンガポールの緑化、ガーデン・シティなどのキャンペーンに重要な役割を果たしている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シンガポール植物園」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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