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シーダー山の戦い(シーダーさんのたたかい、英:Battle of Cedar Mountain、またはスローターズ山の戦い、英:Battle of Slaughter's Mountain、シーダーランの戦い、英:Battle of Cedar Run)は、南北戦争の北バージニア方面作戦の緒戦として1862年8月9日に、バージニア州カルペパー郡で起こった戦闘である。ナサニエル・バンクス少将の指揮する北軍がシーダー山の近くで、ストーンウォール・ジャクソン少将の指揮する南軍を攻撃した。南軍はバージニア州中部に北軍が進行するのを食い止めるためにカルペパー・コートハウスに進軍していた。戦闘の初期段階では南軍が戦場から追い出されかかったが、その反撃で北軍の前線を破り、南軍勝利となった。 == 背景 == 6月26日、北軍ジョン・ポープ少将が新しく設定されたバージニア軍の指揮官に据えられた。ポープはその軍を北バージニアを横切る円弧状に配置した。その右翼はフランツ・シーゲル少将の指揮で、ブルーリッジ山脈のスペリービルに配陣し、中央はナサニエル・バンクス少将の指揮で、リトル・ワシントンにおり、左翼はアービン・マクドウェル少将の指揮で、ラッパハノック川沿いファルマスにあった。バンクス軍団の一部、サミュエル・クロウフォード准将の旅団とジョン・P・ハッチ准将の騎兵隊は、北軍前線の20マイル (32 km) 前、カルペパー・コートハウスに置かれていた〔Salmon, pp. 125-126.〕。 南軍ロバート・E・リー将軍は、ポープ軍の配置に反応して、7月13日にストーンウォール・ジャクソン少将に14,000名の部隊を付けて、ゴードンスビルに派遣した。ジャクソン隊には後の7月27日にA・P・ヒル少将の師団10,000名が補強された〔McPherson, p. 525.〕。8月6日、ポープはゴードンスビルの鉄道結節点奪取を目指して、その軍隊を南のカルペパー郡に進めた。これはバージニア半島から撤退するジョージ・マクレラン少将の軍隊から南軍の注意を逸らす意図があった〔Henderson, p. 402.〕。 ジャクソンはこの脅威に対して、バージニア軍全軍がゴードンスビルの南軍に対峙する前に、ポープ軍の前衛であるバンクス隊を攻撃するという攻撃的な策を選んだ〔Salmon, p. 127.〕。バンクス隊を破れば、ゴードンスビルから26マイル (42 km) 北にあって北バージニアにおける北軍円弧の焦点であるカルペパー・コートハウスに移動し、ポープ軍が一体にならないようにしておけると期待した。こうすれば、ジャクソンがバレー方面作戦で行ったように、北軍軍団と個別に戦って撃破できると考えられた。ジャクソンは8月7日にカルペパーに向けて出発した〔Henderson, p. 403.〕。ビバリー・ロバートソン准将の騎兵隊が先遣隊として送られ、ラピダン川の浅瀬を守る北軍騎兵隊を片付け、南軍が北へ向かうときに左側面の脅威となるマディソン・コートハウスを占領することとされた。ロバートソンは8月8日にこの任務を簡単に片付けた〔McDonald, p. 80.〕。 ジャクソン軍のカルペパー・コートハウスへの進軍は、8月初旬のバージニアにおける厳しい熱波で遅らされ、ジャクソンの性格としてその作戦を秘密にして置いたので、その配下の師団長達は正確な進行経路について混乱させられた。このような状況でジャクソン軍の先頭は8月8日の夜までにわずか8マイル (13 km) 進んだだけだった。北軍の騎兵隊はロバートソンによって簡単に駆逐されてはいたが、直ぐにポープのところに戻り、南軍の進行について警告した。ポープがこれに反応して、シーゲルにはカルペパー・コートハウスへ向かいバンクス隊を支援すること、バンクスにはカルペパー・コートハウスの7マイル (11 km) 南にあるシーダーランの上の尾根で防御線を張るよう命令した〔Henderson, pp. 405-407.〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シーダー山の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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