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シーチ(ウクライナ語:)は、16世紀から19世紀前半にかけてあった、ウクライナ・コサックの軍事・行政の本拠地である。'')は、16世紀から19世紀前半にかけてあった、ウクライナ・コサックの軍事・行政の本拠地である。 == 概要 == 「シーチ」は「要塞」あるいは「木製の城」を意味している。そのような要塞は、河中の島または川岸という攻めにくく守りやすい土地に築城されるのが一般的であった。シーチでは、兵器庫、コサック長官の事務所とクリーニと呼ばれる30あまりのコサックの兵舎があった。各兵舎はウクライナの各地域にちなんで呼ばれ、コサックは出身の地域毎にそれぞれの兵舎に属していた。17世紀半以降、シーチでは軍事施設のほかに正教会の教会堂を建立する習慣が成立した。 ウクライナ・コサックの内外政は共和制に基づいており、シーチにおけるコサックの最高機関は、コサック全員が参政権を有して直接に政治に参加する軍の議会()であった。時としてその議会が地域代表制のもとに開かれたこともあった。普段の議会は、一年に一回か三回で定期的に開会されていたが、一般のコサックの要求に応じて臨時的の「黎民の議会」()も集められた事例がある。議会では法律、行政、裁判、戦争、外交などコサックの生活に関わる合議が行われ、議事の可否は過半数によって目測で決められていた。 コサック軍の議会ではシーチの政府に当たるキーシュの長官も選任することが一般的であった。その政府の頭は、キーシュのオタマーンと呼ばれ、行政についての権能を持っていた。キーシュのオタマーンには、議会で選ばれた軍の書記官()、軍の裁判官()、軍の取締役()と数人のクリーニのオタマーンという補佐役が付属していた。キーシュのオタマーンは、出陣の時には独裁者として振る舞い、平時には議会と長官たちと協議する行動をとっていた。 ウクライナ・コサックの歴史上では、様々な理由から幾度となくシーチの位置は移動した。その移転先によって、16世紀から19世紀前半にかけて存在したシーチは、二つの群に分けられている。それは、16世紀から1775年までにドニプロ川の下流、ザポロージャ地方にあったの群と、1775年から1828年までにドナウ川の下流にあったドナウ川のシーチの群、という区分である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「シーチ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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