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ジム・パチョレック(James Joseph Paciorek , 1960年6月7日 - )は、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイト出身のプロ野球選手(内野手)。日本球界での登録名は「ジェームス・パチョレック」。愛称は「パッキー」。 == 来歴・人物 == ミシガン大学在学中には、野球だけでなくアメリカンフットボールのレギュラーも務めるほどの体格と運動神経を持ち、同大学を卒業したのMLBドラフト14巡目でクリーブランド・インディアンスに指名されるが契約せず、翌のMLBドラフト8巡目でミルウォーキー・ブルワーズに指名され契約。その後、マイナーリーグでも長打力よりは確実性を重視する打者で、シーズン本塁打はAA級エルパソ・ディアブロス時代の9本塁打が最高であった。は、AAA級バンクーバー・カナディアンズで自己最高のペースで成績を残していたため、初めてメジャーに昇格し、主に一塁手、三塁手として48試合に出場した。余談だが、初めて先発出場した試合(4月15日のボルチモア・オリオールズ戦)ではフアン・ニエベスがブルワーズ球団史上初のノーヒットノーランを達成。この試合は当時レギュラー左翼手であったロブ・ディアーが故障したため、代わりに左翼手として出場したもので、ファインプレイを演じ、快挙達成に一役買った。 翌からはミシガン大学時代に日米大学野球で訪れた日本でのプレーを希望し、横浜大洋ホエールズに入団。同年は打率2位、安打数1位という好成績を残し、外野手としてセントラル・リーグのベストナインに選ばれた。また、おとなしい性格だが真面目な態度と確実性のある打撃からたちまち人気を得た。その後も、4番打者カルロス・ポンセの後を打つ5番打者として毎年安定した結果を残し、にも打率2位となり、には念願の首位打者のタイトルを獲得した。だが、前半戦での不振が響いて、それまでの3年間を下回る成績〔ただし最終的に最多勝利打点のタイトルは獲得した〕に終わり、更に大洋フロント陣から「ホームランが少ない」と指摘され、大洋はこの年限りで契約を打ち切った。大洋時代の応援歌は大脱走のテーマソングであった。 からはトーマス・オマリーの誘いもあり、同じセ・リーグの阪神タイガースに移籍した。同年、ラッキーゾーンが本拠地阪神甲子園球場から撤去され、守備力が向上した阪神は、優勝は逃したものの、以来となるAクラスに入った。当初3番打者を任されていたが、シーズン後半からはケガで戦列を離れたオマリーに代わって4番打者に選ばれ、リーグ最多となる159安打、14勝利打点で期待に応え、ベストナインとゴールデングラブ賞の一塁手部門に選ばれた。 は、外国人選手を3名以上出場選手登録することができなかったため、パチョレック、郭李建夫、オマリーのうち1人が出場できないことがネックとなっていた。マスコミはこれを当時国際問題になっていた国連平和維持活動のニュースにかけて、“阪神PKO問題”と呼んだ。当初は実績のあるパチョレックとオマリーが出場していたが、腰痛のため出場機会が少なくなり、出場選手登録枠を郭李に譲って二軍に落ちると、シーズン中に現役引退を表明して帰国した。オマリーがお立ち台で関西弁を駆使して「阪神ファンは1番や!」と絶叫して人気を集めていたが、パチョレックもお立ち台で「阪神ファンは10番目の野手」とファンの持つ大きな力に感謝する発言をしていた。また、不振だった1993年にオールスターにファン投票で選ばれたことに感激していた。 4月6日には横浜スタジアムで行われた古巣・横浜対阪神の開幕戦(横浜主催試合)の始球式を務めるため11年ぶりに来日。この時「僕は両チームとも在籍したけどあえて言うならクジラ(大洋の意味)のファンだね」との言葉を残し母国へ帰っていった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジム・パチョレック」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Jim Paciorek 」があります。 スポンサード リンク
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