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ジェイムズ・ブッカー (James Booker, 1939年12月17日 - 1983年11月8日) は、米国ルイジアナ州ニューオーリンズのピアニスト、シンガー。クラシックからジャズ、R&B、ロックまで幅広く弾きこなす、ニューオーリンズきっての技巧派プレイヤーだった。クラシック・ピアノの巨匠アルトゥール・ルービンシュタインは、1958年にニューオーリンズを訪問した際彼のプレイ聴いて驚愕し、「私はあんな風には絶対に弾けない。少なくともあのようなテンポでは」と語ったという。〔The Time-Picayune紙, 1958年〕 ==来歴== ブッカーは、1939年12月17日、ニューオーリンズに生まれた。父親はバプテスト教会の牧師であり、ブッカーは幼少期を父親が牧師を務めるミシシッピ州の湾岸で過ごした。母親にサクソフォンを与えられたが、鍵盤楽器に興味を示し、父親の教会でオルガンを弾くようになった。 10代になってニューオーリンズに戻ったブッカーは、徐々にその頭角を現していった。わずか11歳でゴスペルのラジオ局WMRYで自らの番組枠を持ち、ピアノをプレイするようになる。14歳のときには、デイヴ・バーソロミューの目に留まり、インペリアル・レコードにリトル・ブッカーの名前で初レコーディング。また、同レーベルではスタジオ・ミュージシャンとしても活躍し、ファッツ・ドミノ、アール・キングらのレコーディングでプレイした。 1961年、自己名義のインスト・ナンバー"Gonzo"をリリース。これがニューオーリンズ周辺でヒットとなる。1950年代から60年代にかけてブッカーは、主にセッション・ミュージシャンとして数多くのアーティストのレコーディング、ツアーに参加し活躍した。彼が当時バックを務めたアーティストには、ウィルソン・ピケット、B.B.キング、ロイド・プライス、シャーリー&リー、エイモス・ミルバーン、ジュニア・パーカー、リトル・リチャードなどがいる。 1967年、ヘロイン不法所持の罪で有罪となり、アンゴラ刑務所に1年間服役した。このため一時的に活動の中断を余儀なくされたが、出所後間もなくファッツ・ドミノの''Fats Is Back'' (1968年)への参加など、すぐにまたセッション・ミュージシャンとしての活動を再開している。 1970年代に入ると、自己名義の活動を増やしていった。1973年、後に''The Lost Paramount Tapes''としてリリースされることとなるアルバムをロサンゼルスでレコーディングする。また、1976年には、ニューオーリンズのシーセイント・スタジオでアルバム''Junco Partner''のレコーディングを行った。 一方、ブッカーは地元のメイプル・リーフ、ティピティーナス、スナグ・ハーバーといったクラブへ頻繁に出演、またニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルへも出演するなど、ライヴ活動も積極的に行っていった。1977年にはヨーロッパ・ツアーも行い、現地で''King of the New Orleans Keyboard''など、アルバムのレコーディングもしている。 しかしながら、この頃からブッカーはアルコール中毒と麻薬中毒に加え、精神病を患い、体調を崩していった。演奏も調子のよいときと悪いときの落差が激しくなり、また奇行も目立つようになった。1982年のアルバム''Classified''のレコーディングの際には直前に倒れて入院する事態となったが、奇跡的にアルバムは完成した。しかしながら、これが彼の生前最後の作品となってしまった。 1983年11月8日、ブッカーはコカインの過剰摂取で倒れ、ニューオーリンズのチャリティー病院にて亡くなった。43歳の若さであった。死後歳月が経っても、彼は未だにニューオーリンズで最高のピアニストの一人として多くのミュージシャン、ファンから尊敬を集めている。2003年には、彼を尊敬するピアニスト達が集結し、トリビュート・アルバム''Patchwork: A Tribute to James Booker''がリリースされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジェイムズ・ブッカー」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 James Booker 」があります。 スポンサード リンク
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