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ジェームズ島と関連遺跡群 : ウィキペディア日本語版
クンタ・キンテ島と関連遺跡群[くんたきんてとうとかんれんいせきぐん]

クンタ・キンテ島と関連遺跡群」は、ガンビアにあるユネスコ世界遺産登録物件のひとつである。構成資産の中心的位置を占めるクンタ・キンテ島は、セネガルの世界遺産であるゴレ島とともに西アフリカにおける奴隷貿易の中心地となってきた歴史を持ち〔世界遺産アカデミー (2010) p.188〕、日本では負の世界遺産のひとつと位置づけられることもしばしばである〔〔松浦 (2009) pp.277-280〕〔『洋泉社MOOK 負の世界遺産』洋泉社、2013年、pp.100-101〕。ただし、この物件はそれだけにとどまらず、後述するようにヨーロッパと西アフリカの交流の諸段階の様子を伝えていることも、登録理由の一つとなった。
登録当初は「ジェームズ島と関連遺跡群」だったが、島の改名に伴って2011年に現在の名称に変更された。
== 歴史的背景 ==
:''「ガンビア#歴史」も参照。なお、以下の説明のうち、太字は世界遺産構成資産を指す。''
現在のガンビアガンビア川流域に細長く伸びる国であり、面積は約1.1万km²で、日本の岐阜県と同じ程度の広さの国である。
15世紀にはマリ帝国の西端に含まれていた。当時は、ポルトガルイスラーム商人ヴェネツィアの商人を介さずに大西洋を渡って直接アジアや西アフリカの物資を得ようとしていた時期であり、ベルデ岬(1444年)、シエラレオネ(1460年)、エルミナ(1471年)と、徐々に到達範囲を広げていった〔宮本・松田 (1997) pp.250-254〕。彼らがガンビア川沿岸に到達したのもその途上のことで、1446年から1456年の間とされている〔。
当初のポルトガルと西アフリカの交易は友好的なものであり、現地の有力者の許可を得て拠点を築き、そこで象牙香辛料などとヨーロッパの加工品の交換が行なわれた〔宮本・松田 (1997) pp.256-257〕。ポルトガルのエンリケ航海王子によって派遣されたは、1456年にガンビア川を遡上し、地元の小王国の首長バッティマンサと一種の友好条約を結び、交易を行なった〔Hughes & Gailey (1999) pp.40, 46-47〕。アルブレダ村とその周辺に残るサン・ドミンゴの小集落ポルトガル人の礼拝堂といった遺跡群は、それから間もない時期に築かれたものである〔。ただし、その後、ポルトガル人の入植は減退していく。カダモストらがガンビア川に積極的に繰り出したのは、そこに多くの黄金が存在していると聞いていたためだが、苛酷な環境の割には大した量の黄金が手に入らなかったからである〔ライス (1968) p.47〕。
その後、西インド諸島や南北アメリカ大陸でのプランテーション経営の拡大などを受けて、黒人奴隷を商品とする大西洋奴隷貿易が行われるようになり〔宮本・松田 (1997) pp.257-259〕、16世紀後半になるとイギリス人の貿易商会もこの地に進出するようになった〔Hughes & Gailey (1999) p.xvii〕〔ライス (1968) p.49〕。
セネガル川からガンビア川にかけてのセネガンビア地方は大西洋奴隷貿易の初期において、特に重要な奴隷供給地となった〔室井 (1999) pp.124-127〕。ガンビア川は外洋船でも上流へ300 km以上遡上できる川であり、内陸部の交易部族であったジャハンケ人との交流にも活用された。ジャハンケ人は象牙のほかに奴隷も扱った。16世紀には、ジョロフ王国マリ帝国の崩壊にともなう民族対立などから、捕虜として奴隷にされる人々がおり、数多くの奴隷が輸出された〔。
ガンビア川における奴隷貿易の主要な拠点はジェームズ島(現クンタ・キンテ島)であり、1651年に要塞も築かれた。1661年からはイギリスがジェームズ島を支配し、以降、フランスなどとたびたび領有権を巡って争った〔〔。1660年にはイギリスで王立アフリカ企業会社が設立され、奴隷貿易を取り仕切った。この独占は1672年の王立アフリカ会社に引き継がれ、自由化された1698年以降は他の商人たちも奴隷貿易に参入した〔宮本・松田 (1997) p.272〕。しかしながら、セネガンビアからの奴隷の輸出は世紀ごとに減っていき、18世紀にはアフリカ全体の3%を占める程度に過ぎなくなった〔。この島から送り出された黒人奴隷は3世紀の間で300万人に及んだともいわれるが〔The Gambia Tourism Authority (2011) pp.8-9〕、現在のガンビア領内から連れて行かれた奴隷の正確な数は不明である〔Hughes & Gailey (1999) p.165〕。
イギリスは1807年に奴隷貿易の廃止を決め、ガンビア川流域でも違法な貿易を厳しく監視するようになった〔。この決定に対しては、貿易商人のみでなく、奴隷を商品としていた現地の首長にも反発する者がおり、彼らによって取締りが妨害されることもあった〔ライス (1968) pp.73-74〕。今は首都になっているバサースト(現バンジュール)の建設は1816年のことだが、当初は違法な奴隷貿易を監視するための拠点づくりが目的とされていた〔ライス (1968) p.74-75、Hughes & Gailey (1999) p.37〕。その都市に設置された六連砲台や対岸のバレン要塞は、密貿易の取り締まりに使われ、成果を挙げた。
しかし、アフリカにおいて奴隷貿易が根絶されていったことは植民地支配の強化と表裏一体をなしていた〔。ガンビアの場合、周辺をフランス領だったセネガルに囲まれているという地理的特殊性から、19世紀後半に英仏間で領土交換などが話し合われたものの、交渉はまとまらず、1889年に現在の国境線につながる区画が確立し、イギリスの支配が続いた〔Hughes & Gailey (1999) pp.8-11〕。なお、1857年にはガンビア川流域でフランスが領有していた唯一の拠点であるアルブレダもイギリス領となっていた。アルブレダに残るCFAOの社屋は1902年にCFAO〔ガンビア政府の推薦書でも世界遺産委員会の決議文書でもCFAOと略されており、いずれも欄外で正式名称の注記がある。〕(Compagnie Française d'Affrique Occidentale, フランス西アフリカ会社)が購入したものであり、イギリス領となった後にもフランス勢力が完全撤退したわけではないことを伝えている〔。隣村ジュフレに残るモーレル兄弟の商館は、20世紀初頭に西アフリカで増加したレバノン系商人の拠点である。
ガンビア一帯が経験してきた奴隷貿易は、アフリカ系アメリカ人作家アレックス・ヘイリーの小説『』と、それを原作とするテレビドラマによって広く知られるところとなった。ヘイリーの先祖とされるもまた、ジェームズ島からアメリカ大陸に送られた黒人奴隷であった。この小説とドラマ以来、奴隷として世界に離散した人々の子孫が自らのルーツ探しのために、クンタ・キンテの出身地とされるジュフレや、クンタ・キンテ島などを訪れる事が増えたという〔The Gambia (2001) pp.10-11〕。
世界遺産に推薦されることになる物件は、第二次世界大戦で使われたバレン要塞のような例外を除けば、19世紀以前に放棄されたまま、独立後も特段の保護は行なわれてこなかった〔。しかし、六連砲台以外は1995年に国定史跡に指定され、六連砲台も後に国定史跡の指定手続きがとられた〔The Gambia (2001) p.24, ICOMOS (2003) p.118〕。なお、現在、世界遺産構成資産はすべて国有物になっており〔、各遺跡に少なくとも1人は専門の管理者を置いている〔The Gambia (2001) p.28, ICOMOS (2003) p.118〕〔アルブレダ、ジュフレ、サン・ドミンゴは3箇所で一まとめとして扱われ、専門の管理者1人、博物館職員1人、来客対応の準常勤職員 (semi-permanent staff) 1人が配置されている (The Gambia (2001) p.28)。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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