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ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタイン : ウィキペディア日本語版 | ジギスムント・フォン・ヘルベルシュタイン
ジークムント(ジギスムント)・フライヘア・フォン・ヘルベルシュタイン(ドイツ語:Siegmund (Sigismund) Freiherr von Herberstein, 1486年8月23日 - 1566年3月28日)は、オーストリアの外交官、著作家、歴史家。男爵。ロシアの地理、歴史、慣習に関する詳しい知識を近世のヨーロッパ人たちに伝えたことで有名である。 == 生涯 == ヘルベルシュタインは神聖ローマ帝国に属するカルニオラ公国(現在のスロヴェニアの一部、当時はハプスブルク君主国領)のヴィパーヴァ(ドイツ語名ヴィッパハ)に生まれた。父はレオンハルト・フォン・ヘルベルシュタイン、母はバルバラ・フォン・ルエクといい、一族は200年前からこの地のヘルベルシュタイン城に住み、ドイツ語をはなす上流階級だった。ヘルベルシュタインの幼少期については、彼が自分の住む地域の住民が使うスロヴェニア語を習得したこと以外はよく判らない。スラヴ系の言語を学んだことは、彼のその後の人生に大きな影響を与えることになる。 1499年、ヘルベルシュタインはウィーン大学に入学して哲学と法学を学んだ。そして1506年にオーストリア軍に将官として出仕し、数多くの遠征に加わった。1508年、彼は神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世により騎士叙任を受けている。ヘルベルシュタインは1515年に帝国評議会の議員となり、この時から外交官として長く偉大な経歴を積むことになる。 1515年から1553年まで、ヘルベルシュタインはおよそ69もの外交任務に従事し、ヨーロッパ世界の大半の地域を巡り、オスマン帝国にも赴いた。彼は主家であるハプスブルク家から重んじられ、功績を重ねるごとに様々な称号や領地を与えられた。ヘルベルシュタインは神聖ローマ皇帝の使節としてロシアを2度訪れている。1度目は1517年、ロシアのモスクワ大公国とその隣国リトアニア大公国との戦争を調停するためであり、そして2度目は1526年、先の2国が1522年に結んだ休戦協定を更新するためであった。長期にわたるロシア滞在(1517年には9か月間も滞在した)のおかげで、ヘルベルシュタインはそれまで多くのヨーロッパ人にとって謎であったロシアの社会について、くわしく知ることが出来た。
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