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DDTとは''dichloro-diphenyl-trichloroethane''(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の略であり、かつて使われていた有機塩素系の殺虫剤、農薬である。日本では1971年(昭和46年)5月に農薬登録が失効した。なお、上記の名称は化学的には正確ではなく、4,4'-(2,2,2-トリクロロエタン-1,1-ジイル)ビス(クロロベンゼン)が正確な化学名である。DDTの構造式のうち、塩素元素が2つあるものをDDD(dicholoro-diphenyl-dichloroethane(ジクロロ-ジフェニル-ジクロロエタン))という。 == 殺虫剤として == 1873年にオーストリアの化学者によって初めて合成された。それから長きにわたって放置されてきたが、1939年にスイスの科学者にしてガイギー社の技師、パウル・ヘルマン・ミュラーによって殺虫効果が発見された〔ガイギー社は染料会社で、のちのチバガイギー、現ノバルティス。染料関連は現チバ・スペシャリティケミカルに分社した。〕。彼はこの功績によって1948年にノーベル生理学・医学賞を受賞した。その後、第二次世界大戦によって日本の除虫菊の供給が途絶えたアメリカによって実用化された。非常に安価に大量生産が出来る上に少量で効果があり、ヒトや家畜に無害であるように見えたため爆発的に広まった。アメリカ軍は1944年9月から10月のペリリューの戦いで戦死体や排泄物にわくハエ退治のためにDDTを初めて戦場に散布した。だが激戦のペリリュー島では死体が多すぎ、効果は限定的だった。 日本では、戦争直後の衛生状況の悪い時代、アメリカ軍が持ち込んだDDTによる、シラミなどの防疫対策として初めて用いられた。外地からの引揚者や、一般の児童の頭髪に粉状の薬剤を浴びせる防除風景は、ニュース映画として配給された。また、米軍機から市街地に空中撒布することもあった〔仙台市史編さん委員会『仙台市史』通史編8(現代1)(仙台市、2011年)、296頁。〕。衛生状態が改善した後は、農業用の殺虫剤として利用された。 日本では、1945年10月に京都大学工学部化学科の宍戸教授の手によって実験室での合成には成功していたが、工業的合成は難しかった。製造特許を持つガイギー社は、製品の海外輸出を禁じていた。戦後アメリカから日本に輸出されたものは、連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) からの援助として特別に許されたものであった。そのため、日本の農薬会社の関心は、次第にBHC(ベンゼンヘキサクロリド)に向けられていったのである。 2007年現在で主に製造している国は中国とインドで、主に発展途上国に輸出されマラリア対策に使われている。農薬としても一部では使用されており、残留農薬となったDDTが問題になることもある。 DDTの分解物のDDE、DDAは非常に安定しており、分解しにくく環境中に長く留まり影響を与える可能性があり、また食物連鎖を通じて生体濃縮されることがわかった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「DDT」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 DDT 」があります。 スポンサード リンク
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