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ジノヴィ・ペトロビッチ・ロジェストヴェンスキー : ウィキペディア日本語版
ジノヴィー・ロジェストヴェンスキー

ジノヴィー・ペトロヴィチ・ロジェストヴェンスキー(ズィノーヴィイ・ペトローヴィチ・ロジェーストヴェンスキイ;ロシア語:ズィノーヴィイ・ピトローヴィチュ・ラジェーストヴィンスキイラテン文字表記の例:'、1848年10月30日グレゴリオ暦11月11日) - 1909年1月1日(グレゴリオ暦1月14日))は、帝政ロシア海軍軍人、最終階級は少将日露戦争においてバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の司令長官を務めた。''ズィノーヴィイ・ピトローヴィチュ・ラジェーストヴィンスキイラテン文字表記の例:'、1848年10月30日グレゴリオ暦11月11日) - 1909年1月1日(グレゴリオ暦1月14日))は、帝政ロシア海軍軍人、最終階級は少将日露戦争においてバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の司令長官を務めた。1848年10月30日グレゴリオ暦11月11日) - 1909年1月1日(グレゴリオ暦1月14日))は、帝政ロシア海軍軍人、最終階級は少将日露戦争においてバルチック艦隊(第二・第三太平洋艦隊)の司令長官を務めた。
== 人物概要 ==
帝政ロシアの将校には珍しく貴族出身ではなかった(父は軍医)。1864年、海軍幼年学校に入校し、その後ペテルブルクのミハイロフ砲術アカデミーを優秀な成績で卒業した後、1873年、中尉に任官した。当初、海軍砲術試験委員会で働き、電気工学に興味を持った。1877年露土戦争に従軍し、四等ゲオルギー勲章を授与された。1883年ブルガリア海軍司令官となる。その後、バルチック艦隊に移り、1894年ステパン・マカロフ指揮下の地中海艦隊装甲巡洋艦ヴラジーミル・モノマフ」の艦長となった。
1898年少将に昇進し、バルチック艦隊の教育砲術支隊司令官となった。支隊司令官在任時、現行の貴族中心の採用基準では有能な人物を抜擢できないとして、暗に貴族制度を批判していた。1903年、海軍参謀総長を歴任し、皇帝ニコライ2世侍従武官を務めて皇帝からの信頼を得た。
日露戦争に際し、バルチック艦隊(第二太平洋艦隊)を編成して喜望峰経由で極東の地へ赴き、旅順第一太平洋艦隊の増援とすることを皇帝に提案し、少将ながらこの艦隊の司令長官になる。その後、中将に昇格。ドッガーバンク事件など多くの事件を起こしつつ、アフリカを廻り、マダガスカルで2ヶ月以上も滞在し、マラッカ海峡を経て極東の地に着く。この間、本国ではバルト海に残った艦船で第三太平洋艦隊を編成され、スエズ運河経由で増援として送られたが、これについては「役立たずの艦船を集めたお荷物になるだけ」として強く反対した。
日本海海戦東郷平八郎大将率いる日本の連合艦隊と交戦した。旗艦クニャージ・スヴォーロフにて重傷を負い、駆逐艦ブイヌイに移乗。ブイヌイが機関故障を起こしたため、駆逐艦ベドーヴイに移乗した。移動中、ベドーヴイが連合艦隊の駆逐艦に発見され降伏、捕虜となった(夜戦中に本隊と逸れていた漣と運悪く遭遇した。乗組員の塚本克熊中尉が私物の高倍率双眼鏡を所持しており発見されてしまった等、ロジェストヴェンスキーにとっての不運が重なった)。佐世保の海軍病院に入院したが、この間東郷大将が見舞いに訪れている。この時の東郷の礼節を尽くした扱いに感銘を受け、一生東郷を尊敬し続けたという。
終戦後の1906年に敗戦の責任を問われ、軍法会議にかけられ少将に降格されたが、無罪となる。この裁判の際、「敗戦の責任は自分にある。この裁判は自分とネボガトフだけを訴追すればいい」と発言した。同年、退役。その3年後、日本海海戦中に受けた傷が原因となり病死した。60歳。
砲術の研究者としては優秀であったが、バルチック艦隊の司令長官としては無能だったと批判されることが多い。司馬遼太郎の小説『坂の上の雲』など驕り高ぶった愚将として書かれているものもある。しかし2007年に発見された31通に及ぶ家族への手紙から、戦場に向かう航海中に既に自軍の状況を的確に把握していたこと、勝ち目の無い戦いであることを予測していたことが判っている。〔読売新聞、2007年10月25日27面〕〔ロシア人研究者コンスタンチーン・サルキソフが読み解いている。鈴木康雄訳『もうひとつの日露戦争』朝日選書朝日新聞出版、2009年〕

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Zinovy Rozhestvensky 」があります。



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