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ジェイムズ・リー・カート(James Lee Kaat, 1938年11月7日 - )は、MLBの元選手。ポジションは投手。アメリカ合衆国ミシガン州ジーランド出身。ニックネームは「Kitty」。 == 経歴 == 6月17日にワシントン・セネターズと契約。8月2日のシカゴ・ホワイトソックス戦でメジャーデビューし、同年は2敗・防御率12.60。4月27日のニューヨーク・ヤンキース戦でメジャー初勝利を挙げるが、その後5連敗で6月にマイナー降格。チームがミネアポリスに本拠地を移転し、ミネソタ・ツインズと改称したは先発ローテーションに定着し、9勝17敗・防御率3.90、共にリーグ最多の11死球・10暴投を記録。は5月12日から7連勝を記録し、オールスターゲームに初めて選出される。後半戦で10勝6敗・防御率2.43と調子を上げ、18勝14敗・防御率3.14、いずれもリーグ最多の5完封・18死球・13暴投を記録。初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後15年連続で受賞する。は故障もあって10勝に留まるが、は17勝を挙げる。はシーズンを通じて防御率2点台を維持するなど好調で、被安打267はリーグワーストながら18勝11敗・防御率2.83を記録し、チームの32年ぶり、移転後初となるリーグ優勝に貢献。ロサンゼルス・ドジャースとのワールドシリーズでは3試合に先発し、いずれもサンディ・コーファックスと投げ合う。第2戦では1失点完投勝利を収めるが、第5戦では3回途中4失点、中2日の第7戦では4回途中2失点で降板して敗戦投手となり、チームは3勝4敗で敗退した。 は4年ぶりにオールスターゲームに選出され、8月11日から8連勝を記録するなど25勝13敗・防御率2.75・205奪三振、いずれもリーグ最多の41先発・304.1イニング・19完投・271被安打を記録し、最多勝のタイトルを獲得。MVPの投票では5位に入るが、当時サイ・ヤング賞は現在とは違って両リーグで1人だけの選出だったため、27勝9敗・防御率1.73・317奪三振を記録したコーファックスが受賞したが、もしリーグで1人であれば選出されていた可能性は高い。皮肉にも翌からリーグで1人の選出となった。同年は1勝7敗と出足でつまづくが、9月に7勝・防御率1.51を記録。チームはボストン・レッドソックス、デトロイト・タイガースと熾烈な優勝争いを演じ、勝てば優勝が決まる9月30日のレッドソックス戦で先発したが3回途中で降板してチームは敗れ、翌日も敗れて1ゲーム差でリーグ優勝を逃した。は故障で1ヶ月出遅れたが14勝・防御率2.94の成績。エクスパンションによって4球団が誕生し、東西2地区制となったも14勝を挙げ、チームの地区優勝に貢献。ボルティモア・オリオールズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは登板がなく、チームは3連敗で敗退した。も14勝で、チームは地区連覇を果たす。前年に続きオリオールズとの対戦となったリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発したが3回途中4失点で敗戦投手となり、チームも3連敗で敗退。は13勝。は開幕から好調で10勝2敗・防御率2.06を記録するが、7月2日を最後に故障で離脱しシーズンを終えた。8月15日にウェーバーにかけられ、ホワイトソックスが獲得。 は6月7日から7連勝、9・10月には7勝・防御率0.30を記録し、21勝13敗・防御率2.92の好成績。は前半戦で13勝を挙げ、9年ぶりにオールスターゲームに選出され、20勝14敗・防御率3.11を記録。12月10日に3選手との交換トレードで、1選手と共にフィラデルフィア・フィリーズに移籍。 は前半戦は9勝3敗・防御率2.91と好調だったが、後半戦で3勝11敗・防御率4.20と調子を落とす。チームは地区優勝を果たし、シンシナティ・レッズとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦に先発し、ビッグレッドマシンと呼ばれた強力打線を6回まで1安打に抑える好投を見せたが7回に捕まり、チームは逆転サヨナラで敗れて3連敗で敗退した。は開幕からリリーフで起用され、5月に先発に戻るが6勝11敗・防御率5.39に終わる。ブルックス・ロビンソンに並ぶ16年連続16回目のゴールドグラブ賞を受賞した。はシーズン初登板で完封勝利を挙げるが8勝。5月11日にニューヨーク・ヤンキースに移籍し、以後はリリーフとしての起用が中心となる。オフにフリーエージェントとなるが4月1日に再契約。4月30日にセントルイス・カーディナルスに移籍し、8勝4セーブを記録。は62試合に登板し、チームはリーグ優勝。ミルウォーキー・ブルワーズとのワールドシリーズでは4試合に登板し。チームは4勝3敗でワールドチャンピオンとなり、自身唯一のチャンピオンリングを手にした。7月6日に解雇され、現役を引退した。 25シーズンのキャリアは、投手としてはノーラン・ライアンの27、トミー・ジョンの26に次いで歴代3位である。1950・60・70・80年代の「4ディケード」でプレイした選手で、引退した時点で1950年代にプレイした最後の選手であった。またツインズの前身であるセネターズでプレイした最後の選手でもあった(後にテキサス・レンジャーズとなったセネターズの選手を除く)。 投手としては打力に優れ、投手としての登板の他106試合に代打等で起用されている。通算で打率.185・16本塁打・106打点を記録。1964年には3本塁打も記録している。 引退後はにフィリーズ時代のチームメイトで、当時シンシナティ・レッズの監督兼選手であったピート・ローズの下、投手コーチに就任し、その後は野球解説者に転身。ドワイト・グッデンのノーヒットノーランとデビッド・ウェルズの完全試合達成のシーンにも遭遇した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジム・カート」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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