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ジム・ヘンソン(Jim Henson, 1936年9月24日 - 1990年5月16日)は、近代アメリカテレビ史において最も重要な操り人形師の一人である。彼はまた、映画製作者、TVプロデューサー、The Jim Henson Company、ジムヘンソン財団、ジム・ヘンソン・クリーチャー・ショップの創立者でもある。 彼はマペット作家で、長い創作活動の間第一級でありつづけた。彼の創作したマペットのカーミット、およびセサミストリートのキャラクターは今なお世界の人々に愛されている。 妻のジェーン・ヘンソン、息子のブライアン・ヘンソンも、マペット操作師である。 ==生涯・人物== ジム・ヘンソンはジェームズ・モーリー・ヘンソン (James Maury Henson) としてミシシッピ州グリーンビルに米国農務省に勤務する農業研究者の父ポール・ランサム・ヘンソン (Paul Ransom Henson) と母エリザベス(ベティ)・マーセラ・ヘンソン (Elizabeth Marcella Henson) の次男として生まれる。兄にポール・ジュニアがいた。家族からはジミーと通称された。ジム・ヘンソンはクリスチャン・サイエンス教徒として育てられ、ミシシッピ州で幼年期を送った後、小学校5年の時に、父の転勤でワシントンD.C.からほど近いメリーランド州に移住、黎明期を迎えていた米国テレビ産業の魅力に取り付かれ、高校卒業後に地元のテレビ局WTOPでアルバイトとして、人形劇の仕事を始める。 メリーランド大学入学後、スタジオアートの勉強を始めるが、自作人形劇の仕事も続け、地域で徐々に名声を広める。大学入学後、後に人形操演者兼生涯の伴侶となるジェーン・ネベルと出会い、NBC系列のテレビ局、WRCのオーディションに合格(兄ポール・ジュニアの交通事故死に遭遇したのもこの時期である)。 奥様向け番組の人形劇コーナーを担当し、1955年に最初の番組『サムと友達』 (''Sam and Friends'') を作成した。この番組は1958年にエミー賞を受賞。マリオネットとパペットの合成語である「マペット」〔マペットの定義としては、カーミットを始めとする初期のマペットがコートの袖や靴下の改造で作られていたように、「口の動きを手で操作する操り人形」と言える。アニマトロニクス技術の発展により、表情を変えることが出来る着ぐるみやCGキャラクターも登場しているが、ヘンソン社製作のものは例外なく、「マペット」であると言える。というのは、口の動きや表情をコンピュータ化及びリモート制御化しているとはいえ、「手で操作している」ことには変わりないからである。なお、単純な技術と思われがちなマペット操演だが、ジム・ヘンソンはそのキャリアの初期から、人間の発声同様、台詞によって、人形の口の開き・唇の形を変えるリップシンク(口パク)と呼ばれる技術を確立し、さりげなくもマペット・キャラクターが本当に発声しているように見える自然さを追求していた。〕という語が最初に使われるとともに、カーミットの原型が最初に登場した。『サムと友達』は1961年まで放送された。 1960年にデトロイトで開催された米国人形劇コンベンションに家族で参加し、バー・ティルストラムを始めとする米国の人形操演者たちの知遇を得る。フランク・オズの両親であるイジドア&フランシス・オズノウィッツ夫妻と知り合ったのもこの時の出来事であるが、この時期、ジム・ヘンソンはジェリー・ジュール、フランク・オズ、ドン・サーリン他の後のヘンソン社の中核を成す人々と出会い、スタッフとして参加してもらうこととなる。 1962年には、マペットたちはNBCのニュースショーの常連出演者となるほどの人気を得ていたため、仕事上の必要から、ジム・ヘンソンは活動の本拠地をニューヨークに移すことを決意。バー・ティルストラムの伝手などにより、マンハッタンにオフィスを開設した。 この時期のキャラクター、犬のロルフはABCネットワークの番組『ザ・ジミー・ディーン・ショー』 (''The Jimmy Dean Show'') のレギュラー出演者となる。『ザ・ジミー・ディーン・ショー』は1963年から1966年にわたって放映された人気番組だが、ジム・ヘンソンはこの番組の中で、マペットの操演や人間との共演について多くのことを学び試みていった。 1968年、ジム・ヘンソンは子供テレビワークショップ (the Children's Television Workshop) の未就学児童向け教育番組プロジェクトに参加、数々のリサーチの後、1969年にパイロット版が作られ、その後世界のほとんどの国で放映されることになる『セサミストリート』が生まれた。『セサミストリート』が制作された背景には、ベトナム戦争やキング牧師、ロバート・ケネディ上院議員暗殺事件などの米国社会情勢の悪化を見ることができる。 『セサミストリート』の成功はジム・ヘンソンにとっては微妙なものであった。ヘンソン社含め、人形操演者にとっては、人形劇は大人向けという意識を持っていたにもかかわらず、『セサミストリート』では子供向け以上の表現が出来なかったからである。続くプロジェクトは完全に大人向けのウィットの利いた人形劇を志向したものとなった。これが『マペットショー』だが、米国で製作資金を調達できず、英国のルー・グレード卿の番組製作会社ITCとヘンソン社の共同制作となった。『マペットショー』はCBSネットワークで洒落た演出で評判を取り、ルドルフ・ヌレエフはじめとする著名スターも多数ゲスト出演する人気番組となり、1976年から1981年の5シーズンに渡って放映され、大成功を収めた。ミス・ピギー、ゴンゾ、フォジー等今日でも知られるマペットのスターが輩出した番組だが、ホストとして舞台を得たカーミットと著名スターを喰ってしまうほどの存在感を示したミス・ピギーの活躍は特筆すべきものがあった。 また、1977年にTV作品として放送された『マペットのクリスマス』 (''Emmet Otter's Jug-Band Christmas'') も、マペットの技術的進化として特筆すべきものあった。『セサミストリート』や『マペットショー』で使われているマペットよりも、実在の動物に近いリアルな人形を志向したものである。 これら、TVネットワークでの成功や技術の進歩を基礎にして、ジム・ヘンソンは1980年代前半から、映画においても、いくつものヒット作を生み出すことになった。ひとつは『マペットショー』で人気を得たカーミット、ミス・ピギーなどのキャラクターが活躍する種類の映画で、『マペットの夢見るハリウッド』 (''The Muppet Movie'')、『マペットの大冒険/宝石泥棒をつかまえろ!』 (''Great Muppet Caper'')、『マペットめざせブロードウェイ!』の3作であり、もうひとつはマペットの技術を用いて、全く独自のファンタジー世界を構築した映画、『ダーククリスタル』と『ラビリンス/魔王の迷宮』の2作である。 『ラビリンス/魔王の迷宮』からそれほど日をおかず発表された『ストーリーテラー』は、ハーバード大学で民俗学を勉強していた長女リサ・ヘンソンの研究が基礎になっている。原型に近い民話を現在のビデオ技術とマペットで映像化するのが企画の要旨だが、予算と日程の制約の中から、映像の質を落さない限度の中で製作された9話分のエピソードは、欧州、日本、豪州で好評をもって迎えられビデオリリースされたが、米国本国では中途半端な製作本数のために、セールスに制約が伴い、不遇な扱いであった。 『セサミストリート』の背景にベトナム戦争があるように、ソ連軍のアフガン侵攻やイラン・イラク戦争などの世界情勢の悪化を背景にして作られたのが『フラグルロック』である。人間の世界に隣接する地下世界に、音楽や芸術を愛するフラグルを始め複数の種族が共存していくという基本ストーリーにジム・ヘンソンが、世界情勢の好転を願った寓話の意味がみて取れる。技術的には、『ダーククリスタル』以降培われたアニマトロニクス技術が投入され、高度なマペット操演が行われた佳作である。 1990年5月16日、化膿レンサ球菌の感染症に倒れた直後、ジム・ヘンソンはニューヨーク病院で死去した。死の直前まで意識がはっきりしており、病状の深刻さを伺わせるものはなかった。5日後、ニューヨーク大聖堂で追悼式が行われた。故人の意思により、喪服の着用は無く、マーチングバンドの奏でる「聖者が街にやってくる」の流れる中、ジム・ヘンソンが創造した何百というマペットたちも加わるカラフルな追悼式であった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジム・ヘンソン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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