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ジャン=ベルトラン・アリスティド : ウィキペディア日本語版
ジャン=ベルトラン・アリスティド

ジャン=ベルトラン・アリスティドJean-Bertrand Aristide, 1953年7月15日 - )は、ハイチの元司祭・元大統領(在任1期前半1991年2月7日 - 9月29日、後半1994年10月15日 - 1996年2月6日、2期2001年2月 - 2004年2月29日
*法的には任期未了)。
サレジオ会司祭で、解放の神学の熱心な実践者であった。退会後、政治活動に身を投じ期待されて民主的な選挙で選ばれた初の大統領となった。貧困層を支持母体に教育の普及に努めた。評論家の中には「彼が独裁者となり、不人気であったために2度打倒された」と看做す者もいる。1度目は1991年9月の軍事クーデターであり、2度目は2004年2月の元軍人が多数参加した反乱である。軍事政権の清算が不十分で、国外からの干渉を受け続け、各地で軍事政権の残党が蜂起したのに対し、アリスティドはこれらの一部を弾圧し殺害した(その前後に多くの支持者が暗殺された)。内戦が激化し、最終的にアメリカの手配した飛行機によって中央アフリカへ脱出した。2期目の終焉となった2004年2月のクーデターについて、亡命先の南アフリカで本人は「米国フランスによる誘拐であり、自分が法的で正統な大統領である」と訴えている。
== 教育及び司祭として ==
アリスティドは1953年7月15日ポール=サリューで生まれた。ポルトープランスで教育を受け、1974年にノートルダム大学に進んだ。それからドミニカ共和国のラベガで修練期の養成を受けハイチに戻り、ハイチ国立大学で心理学、ノートルダムの大学院で哲学を専攻した。1979年に大学院の研究を終えた後に、イタリアとイスラエルで学びつつ、ヨーロッパを旅行した。アリスティドは1983年に彼の叙階式のためにハイチに戻った。
アリスティドはポルトープランスの小さな小教区の助任司祭に任じられ、ついで少し大きなラサリーヌというスラムを含んだ小教区へ転属となり、「小さいアリスティド」という意味のティティド或はティティというクレオールの愛称を得た。解放の神学の実践において彼はハイチのカトリック教会のよりラディカルな派(クレオールで小さな教会を意味する ''ti legliz'' )の指導的な人物となり、国営カトリックラジオの放送で自らの説教を流すようになった。デュバリエ政権は彼を繰り返し黙らせようとした。1986年4月の政権の崩壊だけが彼を救った。1988年9月アリスティドはサレジオ会から「憎しみと暴力、階級闘争の高揚を煽っている」とされ追放された。
1995年アリスティドは司祭職を離れた。1996年米国籍のミルドレ・トゥルイヨと結婚し、彼女との間に2人の娘がいる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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