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ジュリアーノ・ダ・サンガッロ : ウィキペディア日本語版
ジュリアーノ・ダ・サンガッロ

ジュリアーノ・ダ・サンガッロGiuliano da Sangallo1445年 - 1516年10月20日)は、初期ルネサンスイタリア建築家彫刻家、および造兵技師。革新的な建築家ではなかったが、初期から盛期に至るルネサンスのデザインを継承した。
==生涯==
フランチェスコ・ディ・パオロ・ジャンベルティの子としてフィレンツェに生まれる。建築家、彫刻家、技師を輩出したサンガッロ家の人間であり、弟のアントニオ(イル・ヴェッキオ)と甥のアントニオ(イル・ジョヴァネ)も優れた建築家として活躍している。弟とともに城塞建築家兼木細工師のフランチェスコ・ディ・ジョヴァンニ・ディ・フランチェスコに弟子入りする。
フランチェスコを含む数人に依頼されたヴィラの設計案のうちジュリアーノのものがロレンツォ・デ・メディチの目にとまったことで彼に仕え、1480年には、ヴィラ・メディチ(ヴィラ・デル・ポッジョ・ア・カイヤーノ)の建設を任命された。親善政策の一環としてナポリに赴くが、数年後にフィレンツェに帰郷し、ロレンツォ・デ・メディチの名によっていくつかの建築の設計に携わった。ロレンツォ没後もメディチ家に奉仕し、アントニオとともにポッジボンシのポッジョ・インペリアーレ城塞の建設を行った。1484年には、プラートの熱狂的な聖母崇拝に対応するために計画されたサンタ・マリア・デッレ・カールチェリ聖堂の設計を、また、1489年に着工したパラッツォ・ストロッツィの計画にも携わったとされるが、これについては、彼がどの程度貢献したかについて疑念が持たれている。
1491年にはパラッツォ・ゴンディの設計を行っているが、1492年、再びフィレンツェの親善政策として今度はミラノに赴き、ここでレオナルド・ダ・ヴィンチと会談している。ミラノを去った後、1499年から1500年まで、ロレートにおいてジュリアーノ・ダ・マイアーノが着手しながら工事が中断されていたマドンナ聖堂の円蓋工事の指揮をとった。この工事は、その後フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニドナト・ブラマンテアンドレア・サンソヴィーノらも携わることになる。
以後、ジュリアーノはフィレンツェ、ローマを忙しく行き来し、様々な計画に携わった。ローマでは、1514年にサンタ・マリア・デラニマ教会の設計に従事するが、特に重要なものは1505年にドナト・ブラマンテとともに行ったサン・ピエトロ大聖堂の実測調査である。建設計画ではドナト・ブラマンテの案に敗れたが1514年から1515年まで、大聖堂の補佐建築家の地位にあった。
1516年、フィレンツェで没し、サンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂に葬られた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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