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ジョセフ・グリマルディ : ウィキペディア日本語版
ジョセフ・グリマルディ

ジョセフ・グリマルディ(、1778年12月18日 - 1837年5月31日)は、イギリス俳優コメディアンダンサーであり、摂政時代にイギリスで最も人気があるエンタテナーとなった〔Byrne, Eugene. "The patient" , Historyextra.com, 13 April 2012〕。1800年代初期、イギリスのパントマイムの一部をなすハーレクイン物の道化(クラウン)の役を発展させ、特にドルーリーレーンの王立劇場や、サドラーズ・ウェルズコベントガーデンの舞台で演じた。ロンドンの喜劇界で大きな存在になったので、ハーレクイン物の道化は「ジョーイ」と呼ばれるようになった。これはグリマルディのニックネームであり、また顔を白く塗った化粧のデザインでもあった。現在でも道化といえばこの化粧が使われている。「さあ、また来たぞ!」というようなキャッチフレーズを創出し、それが現代のパントマイムでも使われ続けている。
グリマルディはロンドンでエンタテナーの父の息子として生まれ、子供のときに演技を始め、1780年にドルーリーレーンで舞台デビューした。翌年、サドラーズ・ウェルズ劇場で成功した。その最初の主要な役は1781年のパントマイム『浮かれ騒ぎの勝利; あるいはハーレクインの結婚』のリトル・クラウンであり、父と共に始めた。短期間学校に通った後、様々な低予算の演し物に登場し、引っ張りだこの子役になった。1794年の『バレンタインとオルソン』や1796年の『タリスマン、あるいはハーレクインが幸せを作った』では主役を演じ、特に『タリスマン』で世間に広く認知されるようになった。
1790年代の終わり近く、『ロビンソン・クルーソー』のパントマイム版に出演し、パントマイムの重要な演者としての信認を得た。その後も多くの演し物に出演したが、ドルーリーレーンでの経歴が荒れ模様となり、1806年にはこの劇場を離れた。新たにコベントガーデンの舞台で、同年末に『ハーレクイン、あるいはマザー・グース』に出演し、これがおそらく道化として最良の演技になった。コベントガーデンとサドラーズ・ウェルズの舞台で同時に出演して、ロンドンで一流の道化およびエンタテナーとなり、両劇場で多くの成功を収めた。ロンドンでの人気がイングランド中の地方劇場からのお呼びに繋がり、思い通りに出演料を請求できた。
サドラーズ・ウェルズ劇場との付き合いは1820年に終わった。これは主に劇場の管理者との関係が悪化したためだった。長年精力的に道化を演じている間に多くの怪我もしており、その健康も急速に衰え、1823年には引退した。その後の数年間は時折舞台に上がったが、その悪化する体調・機能のために演技は限られたものになった。晩年には、比較的ひっそりと暮らし、気持ちが落ち込み、貧しいアルコール中毒者となった。妻や息子で役者のジョセフ・サミュエルにも先立たれた後、58歳の1837年にイズリントンの自宅で死んだ。
== 伝記 ==

=== 家族の出自と幼年時代 ===

グリマルディはロンドンのクレア・マーケットで、ダンサーと喜劇役者の家に生まれた〔Moody, Jane. "Grimaldi, Joseph" , ''Oxford Dictionary of National Biography'', Oxford University Press, accessed 13 February 2012 〕〔"Scraps from New Books and Periodicals", ''Sheffield Independent'', 8 February 1879, p. 10〕。曾祖父はジョン・バティスト・グリマルディであり、職業は歯科医、アマチュアの芸人として1730年代にイタリアからイングランドに移ってきていた。ジョン・リッチのハーレクインの相手役、パンタロン(老人のボケ役)を演じていた〔McConnell Stott, p. 9〕。その息子で、グリマルディの祖父ジョバンニ・バッティスタ・グリマルディは、若いときから芸人となり、生涯の多くをイタリアとフランスで過ごした〔。伝記作家アンドリュー・マコーネル・ストットに拠れば、祖父はスキャンダルを呼ぶ演技を行った結果として、パリバスティーユ牢獄に拘束された。釈放された後、1742年にロンドンに移動し、父のジョン・バティストからジョン・リッチに紹介された〔McConnell Stott, pp. 7–9〕。しかしリッチを騙した後でヨーロッパ大陸に逃亡し、その後に死んだ〔。
グリマルディの父ジュセッペ・グリマルディ(1713年頃-1788年)は、俳優かつダンサー(芸名はジュセッペあるいは「シニョール」)であり、1760年頃にロンドンに移った〔McConnell Stott, p. 10〕。ロンドンで最初に登場したのはキングス劇場だった。後にデイビッド・ガーリックと契約してドルーリーレーンの王立劇場で、パントマイムのパンタロン役を演じて喝采を博し〔Arundell, p. 31〕、その後はバレエ・マスターとなった〔。グリマルディの母レベッカ・ブルーカーは1764年にホーボーンで生まれた〔Findlater, p. 15〕。1773年にダンサーおよび演説者としてジュセッペ・ガリマルディに師事し、それから間もなく愛人となった。このときレベッカは14歳に満たず〔、ジュセッペは60歳くらいだった〔Grimaldi (Boz edition), p. 6〕。
グリマルディの父は常に女たらしであり、3人の女性との間に少なくとも10人の子供をもうけた。1778年、その愛人であるレベッカとアン・ペリーのそれぞれが住むロンドンの家を行き来していた。この年に2人とも出産し、ペリーはヘンリエッタという女の子を、レベッカがジョセフを生んだ〔McConnell Stott, p. 20〕。ジュセッペは初めての男の子の誕生に大喜びしたが、レベッカとはあまり時間を過ごさずに、ペリーの所に入り浸っていた。おそらく他にも愛人がいた可能性がある〔。レベッカはロンドンの西にあるスラム街、クレア・マーケットで、最初の数年間は一人でジョセフを育てた〔McConnell Stott, p. 21〕。1780年頃、レベッカは2人目の男の子ジョン・バティストを出産した。ジュセッペは俳優一家を創り上げることを切望してペリーと娘の家を離れ、レベッカと2人の息子をハイ・ホーボーンのリトルラッセル通りに移した。ジュセッペは奇人であり自制できない挙動をすることも多く、躾には厳しく、自分の命令に従わない子供達を殴ることも多かった〔。死の魅力がジュセッペの晩年を消耗させた。子供達の反応を見るためにその前で死んだ振りをすることもあり、生きたまま埋葬されるのが怖かったので長女のメアリーには死後に自分の首を落とすよう求め、その分メアリーの相続遺産を5ポンド高くしていた〔McConnell Stott, p. 56〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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