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ジョセフ・フランクリン・ラザフォード : ウィキペディア日本語版
ジョセフ・フランクリン・ラザフォード

ジョセフ・フランクリン・ラザフォード英語:Joseph Franklin Rutherford、1869年11月8日1942年1月8日)は「ものみの塔聖書冊子協会」の二代目会長。チャールズ・テイズ・ラッセル以後のものみの塔協会の宗教を推し進めた主要な人物。
現在の『ものみの塔』誌の姉妹誌である『目ざめよ!』の先がけとして『黄金時代』誌(後に『慰め』と改名)を創刊した。クリスマス会や誕生日会を廃し、十字架を退け、地上での永遠の命の希望を持つ大群衆の存在を示し、「エホバの証人」という名称を採用したのはラザフォードである。
== 経歴 ==

=== 出生と経歴 ===
ジョセフ・フランクリン・ラザフォードは、1869年11月8日、アメリカ合衆国ミズーリモーガンの農家の家に生まれた〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、81頁。〕。両親はバプテスト派の信者であった〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、81頁。〕。ラザフォードは大柄の体格で、身長188センチ、体重102キロあった〔『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、69頁。〕。彼は幼い頃から大学で法律を勉強し、裁判官になりたいと願っていたが、父親は農場に留まることを願った〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、80頁。〕。ラザフォードは実家の農場の労働者に賃金を払うという条件で、大学進学を許可された〔『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、67頁。〕。彼は友人から借金をして大学へ入学したが、在学中には裁判所の速記者となったり、百科事典の戸別セールスを行うことで学費を納めることができた〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、82頁。 『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、67頁。〕。
1890年、ラザフォードはミズーリクーパーのメアリー・フェッツァー(1962年12月17日没)と結婚した。彼の唯一の息子マルコムは、1892年11月10日に誕生した〔Penton 1997, pp.72〕〔『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、89頁。〕。
大学卒業後2年間、E・L・エドワーズの指導を受け、20歳の時にミズーリ州第14法廷巡回区の公式の裁判所書記官になった〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、81頁。〕。22歳の時にはミズーリ州弁護士会に加入し、1892年5月5日に弁護士の免許を取得した〔『エホバの証人―神の王国をふれ告げる人々』 ものみの塔聖書冊子協会、1993年、67頁。〕。そしてミズーリ州ブーンビルで、ドラッフェンとライト法律会社の法廷専門弁護士として4年間検察官を務めた〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、82頁。〕。またミズーリ州第14法廷地域の特別判事をも務めた〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、82頁。〕。こうしてラザフォード「判事」として知られるようになった〔『エホバの証人の年鑑』 ものみの塔聖書冊子協会、1976年、82頁。〕。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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