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ジョゼ・ボヴェ-メディアによっては「ジョゼ・ボベ」と表記されることもある。(José Bové 1953年6月11日 - ) フランスのラルザックの酪農家で、アルテルモンディアリスムの代表的運動家。2009年6月に投票が行われた欧州議会選挙では、緑の党、ダニエル・コーン=ベンディットらと選挙ブロック:ヨーロッパ・エコロジーを結成。ボヴェは当選して、欧州議会議員に選出された。 == 経歴 == ジロンド県タランスで生まれた。学生結婚をしてジョゼ誕生当時、農学を専攻するフランス国立農業研究センター (INRA) の研究者だった両親を持つ。父ジョゼフ=マリーはルクセンブルク系である。母コレットは自然科学の教授である。両親がカリフォルニア大学バークレー校へ研究者として招かれたため、3歳から3年間アメリカ合衆国で生活した。ボヴェは英語が流暢に話せる。 15歳当時、1968年パリ五月革命の影響を受けたジョゼ少年は、アティス=モンスで通っていたカトリックイエズス会系私立高校での「旅行」についての作文の宿題で、麻薬、アルコールを経験し、やがて反逆者になっていく男の人生を「旅」に喩えた創作文を書き「不信心者」として高校を追放される。その後単独でパリに残り(両親は仕事のためボルドーへ転居)、バカロレアを取得した。 この時期にプルードン、バクーニンなどアナキズムの著作をむさぼり読み、現在でも自ら「マルクスよりバクーニンに近い」と語る。21歳で「良心的兵役拒否」の運動に参加、1975年に自身にも召集令状が届くが、兵役拒否者の資格を求める訴えを起こし、一年ほどピレネー山麓の農場に身を隠す。ラルザックでは、1971年からNATO軍基地拡張に反対する農民の闘争が起こっており、ボヴェは一支援者としてこの闘争に参加する。この時期、技術社会批判で知られる思想家で、ボルドー大学で教鞭を取っていたジャック・エリュールから少なからぬ影響を受けている。1976年には、妻アリス・モニエ、長女マリーとともにラルザックに定住した。同年6月28日に14人の農民と8人の住民とともにラルザック基地に突入し事務所を占拠する闘争を行う(この闘争でボヴェは懲役三週間の刑を受けている)など、反基地運動の先頭に立っていくことになる。ラルザックの基地拡張計画は、1981年ミッテラン・フランス社会党政権の誕生により、白紙撤回され農民たちが勝利する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョゼ・ボヴェ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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