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ジョン・ラルー・ヘルム(、1802年7月4日 - 1867年9月8日)は、19世紀アメリカ合衆国の政治家、弁護士、事業家であり、第18代および第24代ケンタッキー州知事を務めた。ただし実際に知事を務めた期間は2回を合わせても14か月に満たない。ハーディン郡を代表してケンタッキー州議会上下両院の議員に選ばれており、下院議長は4回務めた。1838年、アメリカ合衆国下院議員に選ばれる唯一のチャンスがあったが、対抗馬のウィリス・グリーンに浚われた。 ヘルムは1826年にケンタッキー州議会下院議員に初めて選ばれた。1826年から1843年の間で、1年任期の下院議員に11回選出された。1844年には州議会上院議員に選出され、クリッテンデン妥協で著名なジョン・クリッテンデンの副知事候補にホイッグ党から指名されたときまで、この職を務めた。1848年の選挙では、クリッテンデンが州知事に、ヘルムが副知事に当選した。さらに1850年7月31日、ミラード・フィルモア大統領の内閣で、クリッテンデンが司法長官の指名を受け入れたことに伴い、クリッテンデンが知事職を辞したので、ヘルムが知事に昇格した。ヘルムは知事を辞めた後で、苦闘していたルイビル・アンド・ナッシュビル鉄道の社長になった。この事業に多くの私財を投じ、本線沿線の住人に会社の株を買うよう説得した。1859年、鉄道が完成したが、翌年、テネシー州メンフィスまで延伸されることになる支線に関して取締役会と意見が合わずに社長を辞任した。 南北戦争のとき、アメリカ合衆国からの脱退に公然と反対していたが、北軍はヘルムを南軍の同調者と考えた。1862年9月、南軍同調の容疑で逮捕されたが、州知事のジェイムズ・F・ロビンソンが、ヘルムがルイビルの刑務所に移送されるところを認めて釈放させた。戦後は民主党員となり、1865年の選挙でハーディン郡から上院議員に当選した。1867年には民主党の州知事候補者になった。このとき健康を害していたが、州内で活発な遊説を行い、選挙では当選した。しかしヘルムはあまりに弱っていて、就任宣誓をおこなうためにフランクフォートまで行くことができず、州の役人がヘルムの自宅に来て1867年9月3日に就任式を取り仕切った。ヘルムはその5日後に死亡した。 == 初期の経歴 == 1780年、ヘルムの祖父トマス・ヘルムが、バージニア州プリンスウィリアム郡からケンタッキー州に移転し、ハーディン郡のエリザベスタウン近くのヘルム・ステーション開拓地を設立した。ヘルムはそこで1802年7月4日に生まれた〔Powell, p. 46〕〔Allen, p. 107〕〔NGA Bio〕。父は農夫で政治家のジョージ・B・ヘルム、母はレベッカ・ラルー・ヘルムであり、その間に生まれた9人の子供のうち、総領だった。母は著名な地元パイオニア家系の生まれだった〔〔Owen, p. 68〕。 ヘルムは地域の公立学校に入学し、著名な教育者ダフ・グリーンの教えを受けた〔''Biographical Sketch'', pp. 16–17〕。14歳の時に、父が財務的苦境に陥り、ヘルムは家族の農園に戻って働いた〔''Biographical Sketch'', p. 18〕。1818年、ハーディン郡巡回裁判所事務官サミュエル・ヘイクラフトの事務所で実入りの良い職を得た〔。そこではヘイクラフトと共に法律を勉強し、1821年にはベン・トービンの法律事務所に入った〔。 この頃、父はテキサス州に行って、事業を始め、財政を立て直そうとしたが、1822年にそこで死に〔''Biographical Sketch'', pp. 15–16〕、ヘルムには母と兄弟の面倒を見る責任が生じた〔Allen, p. 108〕。1823年には法廷弁護士として認められた。同じ年にミード郡が設立された〔〔Johnson, p. 929〕。この新郡にはまだ弁護士が居なかったので、ヘルムはハーディン郡で生活しながらミード郡の郡検察官になった〔。その法律実務は急速に拡大し、間もなく父の負債を支払えるようになり、ヘルムの家産を購入した〔。1832年から1840年、その土地にヘルムプレースを建設し、それが生涯の自宅になった〔〔Coleman, p. 51〕。 1823年、ヘルムはアメリカ合衆国下院議員のベンジャミン・ハーディンを訪問していた〔Alexander, p. 18〕。ハーディンとヘルムが仕事の話をしているときに、ハーディンの14歳になる娘ルシンダが部屋に入ってきて、描いたばかりの地図を父に見せた〔。ヘルムは後にそれが一目惚れだったと言っており、ルシンダの愛を求め始めた〔。二人は7年間交際し、1830年に結婚して6人の娘と5人の息子をもうけた〔〔。その息子の1人ベンジャミン・ハーディン・ヘルムは南北戦争のときに南軍の将軍となり、チカマウガの戦いで戦死した〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ジョン・L・ヘルム」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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