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ジョン・アーロン・ローリンズ : ウィキペディア日本語版
ジョン・アーロン・ローリンズ

ジョン・アーロン・ローリンズ(John Aaron Rawlins, 1831年2月13日 - 1869年9月6日)は、アメリカ合衆国軍人政治家南北戦争では北軍の将軍を務め、戦後はユリシーズ・グラント大統領の下で第29代アメリカ合衆国陸軍長官を務めた。
== 生涯 ==
1831年2月13日、ローリンズはイリノイ州ガリーナにおいて誕生した〔The Political Graveyard 〕。ローリンズはマウントモリスにあるロックリヴァー神学校でおよそ1年半の教育を受けた〔U.S. Army Center of Military History 〕。
その後ローリンズはガリーナでアイザック・スティーヴンズの法律事務所に入り、法律を学んだ〔。ローリンズは1854年に弁護士として認可を受けた〔。ローリンズはスティーヴンズと共同で法律事務所を経営した〔。弁護士事務所は後に、ローリンズとその弟子デイヴィッド・シーアンとの共同経営となった〔。ローリンズは1857年にガリーナの検事を務めた〔Arlington National Cemetery 〕。またこの頃、ローリンズはアメリカ中西部の趨勢に同調し、民主党スティーブン・ダグラスを支持した〔。
1861年南北戦争が開戦すると、ローリンズはユリシーズ・グラントと知り合った。グラントはイリノイ州ガリーナで兵士を募り、連隊を編成するところであった。ローリンズは志願兵としてグラントの下につき、副官として軍に参加した。1861年8月30日、ローリンズはグラントの要請により合衆国陸軍に大尉として加わり、グラントの指揮権下で副参謀補佐となった〔。ローリンズは南北戦争の大部分をグラントに随伴して過ごし、地位や職責を次第に高めていった〔。ローリンズはテネシー軍参謀長、ミシシッピ州軍事部参謀長などを歴任した。ローリンズは1862年5月14日に少佐〔、1862年11月1日に中佐〔となった。
ローリンズは細やかな配慮を欠かさない人物として知られていた。ローリンズはあらゆる手続きを遵守すべきという信念を持っていた。ローリンズは1863年8月11日に准将に昇進した〔。同時にグラントは大将に昇進し、合衆国陸軍全体を統括する立場となった。グラントはローリンズを、合衆国陸軍総司令部の首席補佐官として任命した。ローリンズは1865年2月24日に名誉少将に昇進し、続いて3月3日に正規軍の准将となった〔。そして4月9日、ローリンズは正規軍の名誉少将に昇進した。
ローリンズは南北戦争後もグラントの下に留まった。そしてグラントが大統領に当選すると、グラントはローリンズを陸軍長官に任命した。だがローリンズは間もなく結核に感染し、健康を損なった。主治医はローリンズに対し、アリゾナで静養することを勧めた。アリゾナの乾燥した砂漠気候が、病気の悪化を抑制すると判断したためであった。だがローリンズはその提案を断り、陸軍長官としてグラント大統領の側に留まることを希望した。
そして1869年9月6日、ローリンズはワシントンD.C.において死去した〔。ローリンズの遺体は議会墓地に埋葬され〔、その後アーリントン国立墓地の第2地区第1007区画に移葬された〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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